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猫額洞の日々

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2009年 05月 03日

続続・本読むひと

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 写真上でも、扉を開けても、外は夏。店内にだけ冬が居座っている。

 らしくない本が入ったので、昨日の新着欄に1冊、追加。アビー・
ホフマンとカップリングしたつもりです?

 4月8~9日にかけての本読むひとと、続・本読むひとの続きである。

 戦前の松竹少女歌劇団・公演パンフレットが手に入ったので、これは
プレゼントしなきゃと、先日お届けに伺った。昭和13年(1938年)頃の
パンフレットなので、彼女はもう退団していらしたが、お友だちの名前が
出ていたそうだ。

 お届けしたときは、娘さんやお友だちと歓談中だったので、ただ差上げた
だけだったが、今日たまたま、店を開ける前に道でお会いした。
 「近くだから、ちょっとお茶でも飲んでいらっしゃいよ」のお言葉に甘えて
お邪魔した。

 彼女は少女歌劇に憧れて入団されたのではない。身体が弱かったので、
子どものときから日本舞踊を習っていたが、小学校卒業の頃、他の
習い事もしてみたいと、お母さまに訴えた。お母さまや叔母さまは、
日本舞踊の先生で、そこに城戸四郎の娘さんだったかが習いに来ている。
 城戸四郎から、「それなら、うちに入りなさい」ということで入団された
そうである。

 入ってみたら、講師陣がズラリ、揃っている。
 「益田孝さんの初めてのバレエのレッスンのとき、『まっすぐ立って
両腕を上げて、親指と人差し指をくっつけて』って、言われたんですよ。
 あたし、親指と人差し指を柔らかく丸く、くっつけてたもんだから、すぐ、
 『そこっ、誰っ? おむすび作るんじゃないよ!』って叱られたの」
 日本舞踊の癖で、肘も曲げて、曲線を描いてしまったのである。

 「高田せい子さんは,名前だけで、二、三度しか教えに来なかったと
思うけど、コールユーブンゲンも習ったし、発声は(新劇・脚本家の)
青山さんだったし」
 松竹に関係したことのある、あらゆるアーティスツが講師であった。

 1989年に出された少女歌劇団員の名簿を見せて頂いた。会長は
もちろんターキー。
 芸名・望月典子嬢は、昭和3年から19年まで(1928~1944年)の、
3期目のクラスに所属されていた。

 「あたしがいた頃は、まだ愉しくていい時代でしたよ。その後、ずっと
戦争になって、戦後も大変でしたけどね。
 いま、戦争があった方がいいなんて、若いひとが言ってるようだけど、
あんなこと言うひとたち、実際に戦争になってごらんなさい。辛くて、
自殺しちゃうんじゃない?」
 昭和13年(1938年)の浅草国際劇場・公演パンフレットの演目でも、
戦時色が窺われるタイトルがあった。
 「あたしは語り部しかできないけれど、戦争はいけないって伝えたいですよ」

 また機会があれば、お邪魔して、いろいろお伺いしたい。戦前の東京の
町並みや人々の暮しについても、伺っておきたいものである。

 ターキーたちのストライキ余話を書いておこう。
 汽車に乗せられ、箱根か湯河原かの貸し別荘が、少女たちの宿舎に
当てられた。レッスンもなく、温泉に入るくらいで、することがない。
 「うちから線香花火が送って来ましてね。箱根の山の中で、花火して
ましたよ」
 そのうち、ストライキも終り、帰郷された。オーケストラ団員の待遇は
改善されたのか? ストライキ突入するも、前後不明な記憶だそうである。

by byogakudo | 2009-05-03 14:33 | 望月典子・松竹少女歌劇団員 | Comments(0)


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