猫額洞の日々

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2010年 11月 04日

片岡義男「映画の中の昭和30年代」/山田風太郎「ぜんぶ余録」読了

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~11月3日より続く

 住まいは畳のない洋風住宅が主になり、衣服は洋服が主体の生活
様式である21世紀から昭和30年代を眺めると、失われた仕草や行動、
住宅の細部の説明に、多数の言葉を要する。

 かつての和風住宅の玄関は、ドアではなく引き戸である。昼間は
鍵もかけないことが多い引き戸だが、鍵をかけて出かける場合の、
鍵とガラスの引き戸との構造関係に、45字×7行、約315字は必要に
なる。(『晩菊』p140)
 小説家はこんなに言葉でデッサンできるのか。

 鏡台は一時、三面鏡が流行り、その後は全身鏡で頭の先から足下まで
チェックしましょうという動きになり、今はどうだか知らないが、昔は
畳の上に置く一面鏡が主だった。
 鏡台には普段は布がかけてあり、使うときだけ布を鏡の裏にはねのける。
鏡の前にぺたんと横座りしたりしてお化粧する。
 そうだった、たしかに。

 行動を示す動詞の使い方にも言及される。
<火鉢に炭を足す、という言いかたでその意味は伝わるだろうか。>
(「山の音』p125)
 <炭を足す>ではなく、<炭を継ぐ>と言ったと思うけれど。

 また、『流れる』で、女たちが反物を見立てる場面で、
< 行商の反物屋がつたの家へ秋の新柄を売り込みにあらわれる>
(p245)とあるが、<行商の反物屋>が腑に落ちない。

 税務署が必要経費と見なしてくれるかどうか解らないが、着物は、
芸者の大切な作業着である。いつも同じお座敷着では芸者失格だ。
 行動としてはそうであっても、<行商の反物屋>では、ツケがきいたり
する、出入りのなじみの呉服屋の感じが伝わらない。

 片岡義男の細かい指摘は作品論へと発展するが、わたしの感想文は
あくまでも細部に留まってるだけだ、と反省する。

     (草思社 07初 帯 J)

 山田風太郎「ぜんぶ余録」(角川春樹事務所 01再 帯 J)は、風太郎、
最後のインタヴュー集。最後まで、とぼけているのか惚けているのか
わからない不思議のひと・山田風太郎だ。





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by byogakudo | 2010-11-04 15:30 | 読書ノート | Comments(0)


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