2012年 03月 25日

「フーコー・コレクション4 権力・監禁」1/2

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 『6 人民裁判について__マオイスト(毛沢東主義者)たちとの
討論』に手間取った。小さな違いが大きな違い、微妙な差異がどこまで
接近するかしないかを、果てしなく論じ続けている様子なのは解った?
けれど、何の話だったっけ? 

 プロレタリアからもはじき出された周縁的下層民が、監獄にあるいは
植民地に送られ、貧乏白人として現地人に対して優位に立つような、
どこまでも続く権力の小さな階梯に人々はつながれている。
 秋葉原の殺人者は、なんでこんな風に考えてみなかったのだろうと、
彼がたとえば経団連を襲わなかったことを今でも腹立たしく思う、
やぶにらみの与太郎である。

 神戸の少年についても、なんでサキ「スレドニ・ヴァシュタール」
が、彼の手の届くところになかったのか、と悔しがる唐変木なので、
わたしの考え方・感じ方の後先がおかしいのは解っているけれど。

 『8 狂人の家』の無生物主語の連打は、フランス語だなあ、って感じ。

<当時、構想され働いていた発作というのは、正確には、疾病の深奥の
 本性が表面に再浮上して見てとれるものになる契機のことではない。
 それは疾病の過程が、過程自体のエネルギーによって、枷から身を
 引き離し、成就を妨げてきた一切のものから自分を解放し、いわば
 自己決定する、そのような契機のことである。[略] 
 医師はこの運動に対して関与することができるし、またそうしなければ
 ならない。すなわち、医師は発作の周囲に、発作に有利な状況の一切を
 取り集め、つまりは発作を準備し、発作を惹き寄せ、発作を惹き起こさ
 なければならない。しかし医師はまた、発作を一機会として捉え、発作に
 治療という自分の行動を挿入し、治療によって、白日のもとでの最も有利
 な闘いに関わらなければならない。[略]
 医学の思考および実践において、発作とは決定的な契機であるとともに、
 儀礼の効果でもあり、戦略的な機会でもあった。>(p177)
 __SF作品みたいだ。

           (ちくま学芸文庫 2006初 J)





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by byogakudo | 2012-03-25 13:59 | 読書ノート | Comments(0)


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