2012年 04月 26日

ミシェル・フーコー「フーコー・コレクション4 権力・監禁」読了( 2)

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 『5 知識人と権力』より、
<[略]欲望と権力と利害とのあいだの関係は、一般に考えられている
 よりはるかに複雑です。権力を行使するものが必然的にその行使に
 利益をもとめているわけではないし、その行使に利害をもとめる人びとが
 権力を行使しているわけではないし、権力への欲望は、権力と利害との
 あいだにこれまた独特な遊戯を演じています。ファシスムが起ったとき、
 一般大衆がしかるべき人びと、といっても一般大衆とは融合しえない人びとが
 権力を行使することを欲するという事態が起る。一般大衆の上にその犠牲の
 もとに、その死と犠牲と虐殺の瞬間にいたるまで権力が行使される以上、
 融合はありえないわけですが、にもかかわらず一般大衆はこの権力を欲望する、
 この権力が行使されることを欲するのです。>(p092-093)

 『6 人民裁判について__マオイスト(毛沢東主義者)たちとの討論』より、
< 司法に対して、闘争はいくつかの形態をとり得るだろう。
 [中略]
 それらは、すべて抗(アンチ)=司法ゲリラ活動であるといってよい。しかし、
 まだそれだけでは反(コントル)=司法にはなっていないのだ。真の反=司法とは、
 本来なら裁きを受けるべきところなのに普段は司法の手を逃れてある人間に対し、
 あくまでも司法の型にのっとった行動を起こすことだ。>(p148-149)
 ずっと、アンチではなくナルだと思ってきたが、ナルは効力を指向しない。コントルなら
実行の場に耐えられるのかしら。

 『8 狂人の家』からは前に引用した。

 『9 監獄についての対談__本とその方法』より、
<[略]権力は知と、そして知は権力と常に運動している。でも、単に権力が
 これこれの発見、これこれの知の形態を必要としていると言うだけではだめで、
 権力行使そのものが知の対象を生み出してそれを浮上させたり、情報を蓄えて
 それを利用するということも示さなければいけません。権力および経済力が日常の
 中でどう働いているかを知らなければ、経済的な知について何も理解したことに
 なりません。権力の行使は絶えず知を産出し、逆に知は権力効果をもたらすんです。
 「中略」
  現代ユマニスムはこの知と権力を分離した点で間違っている。それらは一体化してる
 んですから、知が権力に依存しないような状況を夢見ているようでは話になりません。
 それでは結局ユートピア的な形で相変わらず同じユマニスムを継承することになって
 しまいます。知なくして権力が行使されることも、知が権力を生み出さないことも
 ありえません。>(p210-211)

 『10 ミシェル・フーコー__哲学者の回答』にも紙片が入っているが、どこに反応
したのだろう? 奴隷と奴隷の身体の所有権の箇所だったのか? わからない。 
 まだまだ紙切れは挟まっているが、疲れたので、ここらで一休み。(まだ引用を
続けるつもりなの?)
 
     (ちくま学芸文庫 2006初 J)





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by byogakudo | 2012-04-26 15:16 | 読書ノート | Comments(0)


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