2012年 08月 26日

夏休み行状記 '12/08/20(月)~08/25(土)

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08/20(月)
 暑い。陽はまだ真っ盛りだ。
 「築地の米本珈琲にアイスコーヒー飲みに行く?」
 「うん、行く!」とS。
 2h30pm、部屋を出る。丸ノ内線・大江戸線経由で築地着、3h30pm。
4pmの閉店までまだ30分ある。こないだは15分しかなかった。杉並から
築地まではやはり遠い。

 シネパトスが閉館すると新聞で読んだ。映画を見に行ったことはない
けれど、建物を一目見るために銀座方面へ歩く。
 昭和の夏の暑さがこもっているような場所だ。切符売り場のガラスケース
に灰野敬二ドキュメンタリのティケットが貼ってある。
 外観をSが撮っていると、同じくカメラを抱えた中年男性がいた。

 晴海通りを渡って築地2丁目辺りを歩いていると、路地に木造二階建ての
和風建築が見える。「鉄板焼 Kurosawa」とある。
 近所には、うつくしいサビを見せるトタンの看板跡もあった。

 まだ陽が照りつけている。もうろうと築地1丁目を歩いていると、絵に
描いたようなコンクリートとガラスの近代的ビルにぶつかる。
 この強面ぶりは、たぶん丹下健三とかその手合いだろう。電通ビルだった。
(8月26日、店に来て検索したら、やっぱり丹下。) 

 また築地2丁目。聖路加看護大学に行き当たる。木造のトイスラー
記念館がよく復元されていた。
 聖路加ガーデンから隅田川テラスに下りて、川風に吹かれる。
 大江戸線築地駅から丸ノ内線で部屋に戻る。6h30pm。

 部屋で地下鉄地図を見直す。丸ノ内線との連絡で東の東京を目指すなら、
日比谷線・霞ヶ関を使えばいいと、気づく。
 それに聖路加看護大学の隣が、明石小学校と築地カトリック教会だ!
地図で確認して歩くべきだったが、もうろう散歩は、なかなかそこまで
行き届かない。
 地下鉄網のおかげで東の東京が近くなったけれど、夏の車内は「素足
の魅力」ならぬ「なまあし(生足)の迫力」で、疲れる。

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08/21(火)
 4h30pm、まだまだ暑い。Sがおおまかにネット地図で調べていた
「コンコ堂」に行ってみようと、暗渠の道をたどり、丸ノ内線・東高円寺
から南阿佐ヶ谷へ。
 パール街から河北病院付近を歩く。どうも違うみたい。

 中杉通りを渡る。昔よく行っていた喫茶店「水瓜糖」の場所が
今では解らない。
 お店に飛びこみ、近くに古本屋がないか聞いてみると、ひとつ裏手の
旧中杉通りではないかと教えられる。

 歩いてみる。JRの駅から見て右側に昔風の小さな古本屋があったが、
「コンコ堂」ではない。暑さでもうろうと歩いている。

 Sがいきなり指を鳴らす。はっとして立ち止まり、すれ違おうとしていた
男性と目が合う。二秒後、お互いの目と頭(記憶)が集束する。
 アーティスト・伊東篤宏氏であった。

 「どうして、こんなところを歩いてるんですか?」
 「いや、コンコ堂を探していて」
 「今日は火曜日でしょう、あすこは火曜定休だから・・・こっちです」
と案内してくださる。
 通り過ぎていた。シャッターに「コンコ堂」と書いてあるのに。

 高円寺に用がある伊東氏と、JR阿佐ヶ谷駅まで喋りながら歩く。
阿佐ヶ谷に住われるとは聞いていたが、まさかここで会うとは。
 「アルトー24時」「5・21 EP-4ライヴ」以来、お目にかかるのは
三度目。

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08/22(水)
 夕方まで部屋にこもる。メールチェック(むしろメール消し)に
店に行く。手書きに耐えかねて古いノートmacを持ち帰り、今日までの
行状記を書く。

08/23(木)
 4pm過ぎ、地下鉄で一駅の中野新橋まで歩く。もちろん暑い。
 TSUTAYAでDVDを5枚借りる。店内に流れる日本語ラップの歌詞の
ひどさ・音の大きさに気が狂いそうだ。静かな環境で選びたい。

 夜、「J・エドガー」を見る。FBIフーヴァー長官と副長官の秘め
られたホモセクシュアルの愛と、FBI年代史・アメリカ現代史とが
絡み合って描かれる。晩年のできごととフーヴァー長官の若い時期・
FBI創設期のできごととが、うまく絡んだ脚本だ。
 イーストウッド作品は「映像」じゃなくて「映画」だから好きだ。

 残り4本は、わたしは見るかどうかわからない。

 ついでに、読んでいる本や読み終わった本のノート。
 由良君美「椿説泰西浪漫派文学談義」(平凡社ライブラリー 2012初 J)、
1970年代は元気な時代だったと思い出す。

<そうか、ドイツ宗教改革の立役者を気取りながら、農民戦争を圧殺した
 のはルターだったのだな。ちょうどイギリス革命の立役者を気取りながら、
 共和の夢を圧殺したのがクロムウェルだったように。>(p151『サスケ
ハナ計画』)__と、エルンスト・ブロッホを読んだ由良君美の頭の中で、
トーマス・ミュンツァー像とウィリアム・ブレイク像とが、結びつく。
 由良君美は当時の全共闘学生よりも過激な教師だった。

 平凡社ライブラリーは70年代づいてるのか。今月の新刊は、グスタフ・
ルネ・ホッケ「文学におけるマニエリスム」であり、「植草甚一
コラージュ日記 東京1976」だ。

 パトリシア・モイーズ「死のクロスワード」(HPB 1984初 帯 VJ無)、
ぴんと来なかった。イギリスの女性ミステリ作家は大体、好みに合いそうな
ものだけど。

< イギリスの運転免許証というのは、写真添付のいらない世界でも
 最後のものにちがいない。それでも署名だけは書き込まなくてはなら
 ないため、レンタカー会社では免許証と目の前で書いてもらったサイン
 とが同一のものであるかどうかを注意深く見比べるのだ。>(p213下段)
 原作は1983年刊だが、今でもこのままだろうか。

 <一種のきちんと整った流れるように優美な書体>(P215下段)である
イタリア式書体のことは、最近読んだHPBの何かにも出て来たけれど、
さあ、それは何だったのでしょう。
 ノートするから、安心して読んだ本を忘れるようなきらいがある。
ブログの「記事別アクセス」欄を開けてみると、そんな本を読んでた
のか、そんな風に考えたのかと、驚くときがある。
 記憶が継続するから「わたし」は「わたし」である筈なのに、
こんな風では「わたし」は常に行方不明だ。

 去年の春先だったか、初めていらした男性客があった。ドリュ・ラ・
ロシェルから始まり、いつの間にか城戸禮や「ホープさん」の話になった。
 どちらか片方だけ語る古本屋はいても、この振幅で話ができる古本屋が
いたことに驚かれたようだったが(わたしも驚いた)、3・11以後、
お見えにならない。元気でいて下さればいいのだけれど。
 あれ以後、から元気でしか語れなくなった。

 そんな訳で(?)、春陽文庫の現代小説、中村八朗「三人姉妹」が
買取本中にあったので読んでみる。
 文庫初刷は1974年だが、単行本はたぶん昭和30年代だろう、描かれる
風俗から見て。
 当時の東宝や日活文芸路線映画の原作になりそうな、没落気味の元・
プチブル一家の三姉妹の物語。(春陽文庫 1977年7刷 裸本)

フーコーも「エル・グレコのまどろみ」も途絶、また最初から
読み出すしかない。
 「東京百話」は、これは枕元に置いて、いつでも手に取ればいいが、
吉村昭「亭主の家出」は、どうしよう。ロバート・A・ハインライン
「未知の地平線」と併読するのか?
 「秘書綺譚 ブラックウッド幻想怪奇傑作集」(光文社古典新訳文庫
2012初 J)と養老孟司・甲野善紀「古武術の発見」(光文社 知恵の森
文庫 2003年6刷 J)も待っている。

 「東京百話」にも中村進次郎のことが出ていた。これもすっかり
忘れていたことの一つ。
 野口冨士男「レビューくさぐさ」より、書き抜く。

< 高輪芳子は、雑誌「新青年」の男性ファッションのページ
 「ヴォーガンヴォーグ」欄の執筆者であった中村進次郎と心中
 したが、私は学生時代に昭和通りのバーで一度だけ彼に逢っている。
 甘いマスクの美声年であった。片割れとなって生き残った中村は
 日本で最初の自殺幇助(ほうじょ)罪に問われてそれきり名前を見せなく
 なったが、[以下略]>(p72)
 どんなタイプの甘いマスクだったのか、当時の映画スターで言えば
誰に似ていたか、書いておいてもらいたかった。

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08/24(金)
 自分で選んでおきながら終盤だけ見た「カウボーイ&エイリアン」
が終り、4pm、やはり出かける。バスで西新宿五丁目まで行き、
地下鉄・大江戸線で蔵前まで。5pm、蔵前着。まだ陽がある。

 お寺と墓地が多い寿方面を歩く。いかにも古そうな宗吾殿の石柵に
黒猫が寝そべっている。風の通りがいいのだろう。
 彼か彼女かの片耳にはパンチ穴が見える。

 うつくしい木造家屋は、正面に廻ったら「駒形どぜう」だった。
気がつけば、蔵前というより浅草が近い。
 駒形橋の降り際、フェンスに囲まれた中で、これもパンチ穴の開いた
黒猫が悠然とお昼寝してる。

 東武伊勢崎線・浅草駅付近で夕飯。陽が暮れた。もう少し歩こう。

 吾妻橋を対岸に向おうとして、ふと下を見ると、隅田川テラスの
工事中でひとが入れないコンクリートの岸壁・縁すれすれに、背中が
茶色い鷺が一羽、水を覗き込んでいる。
 屋形船の季節で、船が向こう岸を通る度に、頸を伸ばして見やる。
エサを探しているのか、ただ休んでいるのか。じっと佇み、ときどき
羽づくろいしている鷺を、こちらもじっと眺める。Sのカメラがズーム
じゃないのが辛い。

 吾妻橋を渡り対岸のテラスに降りたけれど、明りがなくて歩きにくい。
一橋分テラスを下流に向って歩き、駒形橋を渡って、又さっきの場所から
降りようとすると、フェンスに囲まれて昼寝の黒猫がまだいた。
 声をかけると、ようやく寝足りたのか伸びをし、フェンスから抜け出て
もう一伸び。しゃがんで見ているわたしたちに近づき、ふたりの間を8の
字を描いて身体をこすりつけながら二周して去っていった。

 厩橋までテラスを歩き、同じルートで戻る。8h30pm着。
 「国松レジスター」の猫には、今日は会えなかった。

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08/25(土) 
 10月にまた何かやることになりそうで、Sは3pm過ぎに出かける。
 夏休みも今日でおしまい。明日いちにち開けて、また月曜日を定休
するので、ふだんのペースに戻すのは、やりやすいだろう。
 
 ノートmacを持って来て、毎日楽しく日記を書いていると、小学生
みたいだ。Sが写真をつけてくれるので、絵日記ではなく写真日記が
できる。
 ブログ・カテゴリを無視して書くのが、大変楽しい。自分で決めた
カテゴリだし、後でチェックするのに分類されてる方が便利といえば
便利なのだけれど、窮屈になることもある。ただの日記なのにさ。
 何かについて書いていて、あるいは喋っていて、まるで違う方向に
話題が向うことがある。それこそが書くことや会話することの面白さだ。
脱線しないことで、なにかいいことって考えていて思い出した。

 小学校高学年の少女とそのお母さんらしい二人連れが入って来られた。
 本棚をチェックするお母さんの背後で、娘さんがやや涙声で、ひとりごと
のように訴える。
 「どうして、聴いたことのないCDや読んだことのない本を買っちゃ
いけないのよ」
 お母さんは無視する。

 少女の発言に至るまでには伏線があったのだろうが、どちらの気持も
理解できる。きちんと予算を立てて暮らすことの大切さを、子どもに
教えるべきだし、それと同時に、賢い消費者が幸福な生活者と同語である
かといえば、等号で結ばれるとは限らない。
 無駄と無為で生きる時間をやり過ごして来たヤクザ者なので、少女の
悲鳴は、とても身に憶えがある。蕩尽の感覚がないひと、それが理解
できないひととは、うまく行かないし。
 それでも大人なので、明日を考えることもできるようになった。死ぬ
までは生きているので、明日のことも考えざるを得ない、と諦めがつく。

 蕩尽か。なつかしい言葉だ。
 読書感想文で、なにか書き落としていると思ったら、モダーンアート・
コレクター兼介護事務所所長の森秀貴氏からお借りした、「THE EAR
NO.1001」と「瀧口修造研究会会報 橄欖(かんらん) 第二号」が
よかった。

 どちらも女性アーティスト・浅岡慶子(代尾飛(しろお・ひゅう))の
文章を読んだ。
 前者は、三木富雄とのコラボレーションについて、後者は<回想:
「銀色の葉影」>と題された、瀧口修造との出会いや思い出である。

 1976年3月から8月まで、三木富雄は当時の代尾飛(しろお・ひゅう)
のロフトに住み、粘土で「翼の生えた耳」を製作した。薬物と手を切る、
という約束の元、彼女は彼を受け入れた。
 アルバイト学生の彼女がかき集めたお金で500kgの粘土を買い入れ、
30坪のロフトいっぱいになる巨大な「翼の生えた耳」が出来上がった。
 しかし石膏どりし、ブロンズ像にする資金は、どうにもない。

 彼女が考え出した解決策は、作品を鉛筆で描き取ることだった。
いろいろなアングルから写真を撮り、作品を取り壊す。記憶に映ずる
像を、彼女は40点のドローイングに創りあげた。
 オリジナル・イメージが三木富雄であることの証明に、彼が全作に
サインする。
 40点のうち、アングルのよい、対称性のある22点をセットにし、
「THE EAR NO.1001」の完成作品とした。
 展示空間の中央に、彫刻不在の台を置く。観客は、周囲の壁に展示
された22点のドローイングを見て廻ることで、不可視の彫刻も見ること
になる。

 そこまでアイディアが出たとき、三木富雄は、最初からこのコンセプト
で創ったことにしようと言い出し、彼女のドローイングを日本に持ち帰る。
 一年半後、彼は死亡し、代尾飛(浅岡慶子)の元にドローイングが
戻ってきたのは、その数年後であった。
 「THE EAR NO.1001 浅岡慶子+三木富雄」展は、1992年4月18日~
5月31日、国立国際美術館で開催された。

 順序が逆になろうと、彼は見せ方のインパクトを重んじ、彼女は
生真面目にそれに対して否定的である。詩的真実としては彼のやり方
に賛成するが、作者である彼女の意志は尊重されるべきであろう。
 
 「瀧口修造研究会会報 橄欖(かんらん) 第二号」掲載の<回想:
「銀色の葉影」>によれば、浅岡慶子(代尾飛(しろお・ひゅう))は、
ほんとに瀧口修造に可愛がられたようだ。
 彼女だけでなく、彼がいいと思ったすべてのアーティストに対して、
瀧口修造はできる限りの手助けを惜しまなかった様子がよく窺われる。

 「美術手帖」の編集スタッフとして瀧口修造と知り合い、やがて
家に遊びに来るよう誘われる。
 あの書斎で話に花が咲き、夜遅くなると、女の子をひとりで帰す
訳に行かないからと、書斎の長椅子(細長い、茶色い革張りの診療台)
が客用ベッドに変る。
 オブジェに囲まれ、ひとり眠る夜は夢魔の夜。つい寝坊して、所在ない
(書斎ない)瀧口修造はオリーヴの手入れをしながら、彼女が目覚める
のを待っている。

 彼女が絵描き一本やりで生きることを決意し、南画廊で初個展を
やろうとしたが、ことがうまく運ばず困っていたとき、瀧口修造は、
さっさと針生一郎の関わるピナール画廊に連絡して、決めてくれた。
胃の手術から退院して間もなかったのに。
 
 渡米した彼女は、ニューヨークでも瀧口修造の思いやりに接する。
デュシャン展のためにアメリカに来ている瀧口修造を歓迎するパーティ
の会場は、彼女のところにしてくれと言われる。
 貧しい画学生のロフトに現れたメンバーは、ロックフェラー財団に
ジャパン・ソサエティ関係者、在米詩人と友人たちに、ドナルド・
キーンやケイト・ミレット他、錚々たる客ばかり。
 彼女が長くニューヨークで仕事が続けられるよう、瀧口修造は彼の
歓迎パーティを、彼女のお目見えパーティに仕向けてくれたのだ。
 なんて優しい、こころ遣いだろう。

 浅岡慶子(代尾飛(しろお・ひゅう))の作品が見られないかとwebを
探すのだけど、あんまり出て来ない。どこで見られるのかな。





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by byogakudo | 2012-08-26 12:59 | 雑録 | Comments(0)


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