2013年 01月 12日

グレアム・グリーン「第三の男・落ちた偶像」読了

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 今週の新着欄です、よろしく。
 新着欄

 「第三の男」をまず読む。無知をさらけ出す言い方だけど、グレアム・
グリーンってうまい小説家だ。ミステリだ純文学だとかジャンル分けする
以前に。

 第二次大戦後、四大戦勝国(英米仏露)の共同管理下にあるウィーンという
街が主人公なのではないか。ハリイ・ライムも、映画ではジョゼフ・コットンが
演った、その友人も、アリダ・ヴァリの役柄も、街の壁に投影される光と影の
戯れに過ぎず、オーストリア=ハンガリー帝国の地霊に操られた群像ではないか。
 その意味で映画的な小説である。映画の脚本を頼まれて、まず小説形式で
書かれた、という前提があっても。

 映画的という印象は、語り手がふたりであることからも来る。英軍の憲兵隊・
大佐が背景を語り始め、そこに、映画と違って英国人のハリイ・ライムの旧友、
イギリス人の西部小説作家(!)、ロロ・マーティンスが登場して語りだす。
 ふたりが語り合うシーンは、言わばディゾルヴの効果を読者に与える。ごく
さりげなく述べられているのだが。
 あるいは、カメラの引きと寄り、といってもいい。大佐は引きで語り、西部
小説作家は寄りである。

 話が飛ぶが、欧米人は手帳ではなく封筒の裏にノートする例が出てきた。
三カ所も。

 ロロ・マーティンスが大佐とハリイの話をしながら、
< マーティンスは、口笛で或る曲を吹いたが__それは、奇妙にも私の
 聞きなれたものだつた。
  「いつもこれを想い出すんです。ハリイがこれを作曲してるのを、見てたん
 ですからね。たつた数分間の間に封筒の裏に書いたんです。[以下略]」>
(p21上段)

 ロロ・マーティンスはバック・デクスターという筆名で西部小説を書いているが、
同姓で、名前の頭文字が同じBの純文学作家と勘違いされ、講演会で文学ファンの
質問に答えるコミカルな場面がある(映画ではもちろん省かれた)。
 
 ロロ・マーティンス=バック・デクスターのアイドル作家は本場の西部小説家、
ゼーン・グレイである。ジョイスについて聞かれると、
< 「[略]僕はそんな男の名前を聞いたこともありません。その男はどんな
 ものを書いたんですか?」
  マーティンスは、夢にも考えつなかつた[ママ]ことだが、人々に素晴らしい
 感銘を与えたのである。このように傲然と構え、このように明快に一線を劃して
 見せるのは、大作家のみがなし得ることだつたからである。幾多の人々が、
 封筒の裏に、ゼーン・グレイの名前を書きこんだ。>(p69下段〜p70上段)

 <「第三の男」について>と題されたグリーンのあとがきには、
< さて、数年前のことになるが、私は、封筒の裏に、冒頭の一句を書きとめた
 ことがある。「私がハリイに最後のさよなら(原文は圏点)を言つたのは、
 彼の棺が二月の凍つた地下に沈んで行つた、一週間前のことだつたので、
 ストランド街の見知らぬ人の群の間で、知らぬ振をして通りすぎる彼を見た
 時には、奇異の感にうたれた。」と。>(p122上下段)

 これが「第三の男」の出発点だった。
 
 男同士の友情にはホモセクシュアルな面が大きい。ハリイ・ライムはロロ・
マーティンスの思春期の英雄であり、じゅうぶん大人になってからも英雄視
が続いていたが、ウィーンでの体験で夢想が崩壊する。
 マーティンスがライムの愛人であった女優に恋するのも、ライムへの愛と
憧れからである。彼自身はそう認識していないが。
 女同士の友情には権力闘争の側面がつきまとう。友情が存在できるのは、
男女間のフィールドではないかしら。一般には、そう思われていないようだけれど。

 「落ちた偶像」は、映画「召使」でダーク・ボガードに食い尽くされるジェームズ・
フォックスの幼児期にあったとしてもおかしくなさそうな物語だ。

     (HPB 1955初)





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by byogakudo | 2013-01-12 14:10 | 読書ノート | Comments(0)


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