猫額洞の日々

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2014年 03月 22日

小島政二郎「小説 永井荷風」読了

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 Sが半分近くまで読んで手を離した(また読むのだろうが)ので、
先に読み終えた。

 文学あるいは小説についてのコンセプト(?)が小島政二郎と
かなり違っているようで、それにそもそも、ここで引き合いに
出される「私小説」を読んでいないし、「私小説」に対する、
なんだろう、真心主義とでもいえばよいのか、それはわたしの
理解の範囲を越えていて、全部読んではみたけれど、あまり
よい読者とは言えないみたい。

 わたしが考える小説や文学は、たとえば「シルトの岸辺」、
「アウラ」や「モレルの発明」、森茉莉「甘い蜜の部屋」などが
そうで、言葉だけを素材として、誰も否定できない空中楼閣を
築き上げたものが小説であり文学だと思ってきた。

 だから小島政二郎が、荷風「西遊日誌抄」のすばらしさの元を、
< それもこれも、アメリカの五年間に、彼が本当に自分自身の
 生活をしたからであった。自分自身の生活をしたからこそ、文学的
 にも、本当のものを掴まえることが出来たのだ。>(p107~108)
 __仕事に悩まなくては生活したことにならないのかしら。

 あるいは、
< 彼はアメリカで自分流の生活を送っている間に、新しい文学の
 洗礼を受けた。どんな作家を彼が愛読したかは、私が前に列挙
 した通りだ。彼はいつの間にか、主義のないモーパッサンやロチに
 血の近さを感じた。彼のテンペラメントとして、これは当然のことで、
 彼のような詩人的な稟性(ひんせい)の人間が、ゾラのような科学的な
 「小説作法」を遵法(じゅんぽう)することは不可能だったに違いない。>
(p139~140)
 __主義がなくても小説は書ける。

 あ、いま気がついた。文明開化の日本は、西洋の文物のアラモードに
すぐ飛びついて、絵画なら印象派に直行したように、文学は自然主義を
まず学んでしまったのだ。古典は古いものだから、今の潮流を知らなくっ
ちゃ、と。そこから始めてしまって、日本的な変容が加わり、「私小説」
というジャンルができたのかしら。

 怪しい文学論はさておき、先だって覚えたばかりの「ホモ・ソーシャル」
なる概念を持ち出したくなる小島政二郎の「小説 永井荷風」だ。
 「兄貴ぃ、なんで江戸趣味なんぞに回帰するんです? 兄貴は、もっと
先に進めたはずじゃありませんか?」等々、言外から聞こえてくるような、
愛憎相半ばする小島政二郎の一冊である。

 しかし、荷風の女好きがそんなに問題になるか? 覗き趣味や秘密写真
撮影は「異常性」と呼ばれるべき行為だろうか。殺さなければ満足でき
ないというなら、性的に異常で問題だと言ってもよいと思うが。

< 私はこの荷風の恥を知らない異常性を見過ごしに出来ない気がする
 のである。なぜだかよく分らないのだが、何かこの異常性が彼の芸術の
 根元をなしているように思われてならないのだ。>(p405~406)
 __エロティシズムは創造行為の元ってことでしょう?

 荷風の文学の秘密は、
<厭味とポーズと嘘と、この三つのものがうまく渾然(こんぜん)として
 一体となった時、そうだ、もう一つ忘れてはならぬのが彼の文章の魅力だ。
 彼の美しい文章という言葉を得て、厭味とポーズと嘘とが忽ち見事な
 散文詩と生まれ変わるのである。>(p320)
 __言いたいことはわかるけれど。

     (ちくま文庫 2013初 帯 J)





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by byogakudo | 2014-03-22 20:15 | 読書ノート | Comments(0)


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