2014年 04月 05日

鈴木創士氏のコラム「第49回 パゾリーニ、ゴルゴタの丘」/L・デヴィッドスン「モルダウの黒い流れ」読了

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 4月の__もう4月!__鈴木創士氏のコラムは、
「第49回 パゾリーニ、ゴルゴタの丘」

< ここには二重の問いがある。「事実」のリアリティと「イマージュ」の
 リアリティである。映画は、この場合は様々な意味で、それらを混同する
 格好の装置である。この混同は瞬時になされ、映画が時間の芸術である
 ことをほとんど否定してしまうほどである。そしてこの混同があたかも
 再び「事実」のリアリティのように感覚されてしまうのは、「現実」の
 リアリティに対してもわれわれは宿命的に同じような混同を行っている
 からだ。勿論私自身を含めて、われわれは生活の次元においてすらすでに
 「映画的効果」のなかにどっぷりと浸かっているのだ。>


 昨夜読み終えたライオネル・デヴィッドスン「モルダウの黒い流れ」、
これはスパイ小説及び教養小説のパロディとして書かれたのではない
だろうか。考え過ぎかしら?

 主人公の最初のプラハ行きはいわば予行演習、彼は再びプラハに赴く。
二度目のプラハでは、それこそスパイ小説さながらの展開だ。
 ガラス製造方法どころか、もっとヤバいものの運び屋として使われている
ことに主人公はやっと(!)気がつく。慌ててイギリス大使館に連絡を取ろうと
するが、そのとき遅く、チェコの国家保安警察に踏み込まれ、必死で逃れる。

 プラハの旧市街の路地をさまよい、パレードの人ごみに紛れ、ひとを騙し、
生まれて初めての暴力行為に手を染め、相手をあまり痛めつけないよう注意
してではあるが、それを何度か繰り返して、目的地・イギリス大使館の領域に
滑り込む。そこでひっそりと10週間ほど過ごし、スパイの交換協定でも結ばれ
たらしく、彼は秘密厳守を誓って帰国する。(まるで一人前のスパイみたい!)

 ただ教養小説ならば、試練を経た主人公は人格的にも、もっと一人前の男らしい
(と称される)男に生まれ変わりそうなものを、相変わらず自分に降りかかった
事件を他人(ひと)事っぽく感じているし、優柔不断で成り行きの力学に身を任せて
物事を決める性質は変わらない。変わったといえば、自分の柔弱さに自覚的に
なったことか。

<事件そのものは、気まぐれなものであり、その意義は、つねに疑わしいもので
 ある。経験が、かりになにかを教えたとすれば、それは、あまりふかくは考えずに、
 その場その場で、するどい反応を示すように、わが身を鍛えろということだ。>
(p329上段)
 一行目は特に、とてもイギリス的感受性だ。

     (HPB 1961初 裸本)





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by byogakudo | 2014-04-05 20:54 | 読書ノート | Comments(0)


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