2014年 06月 14日

秦早穂子「影の部分 La Part de l'Ombre」読了

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 数日前に「勝手にしやがれ」と書いて、ようやく何度か読もうと
思っては忘れていた(まだ古本屋だった頃から思っていたので、
いつか買取りで入りはしないかと、期待もあったが)秦早穂子
「影の部分 La Part de l'Ombre」をとうとう手に入れ、読む。

 自伝風の小説仕立てというのも書くのに難しいジャンルだが、
なんて巧いのだろう。或るブルジョア娘の回想、という点で、つい
朝吹登水子「愛のむこう側」を思い出してしまうが、思い出された
方は不幸である。朝吹登水子はボーヴォワール自伝をお手本にした
のだろうが、ほんとに拙、だったなあと思い出されるのである。

 前から口が悪いのは自覚していたが、古本屋という立場を外れて、
ますます遠慮がなくなる。「愛のむこう側」や幸田文「流れる」は、
女性作家の陥りやすい無神経さの産物、とまで、わたしは考える。
 以前にも書いたように、「流れる」の紙面から漂ってくる脂粉と
鉄錆めいた月経臭の混じり合った臭いに無感覚でいられるのが
判らないし、「愛のむこう側」の恋愛場面に見られる猥褻感も
スルーできない。
 もしかして、召使は人間ではないから、彼らの目の前で平気で
裸になる貴族的な無意識性を「愛のむこう側」の猥褻感と捉えた
と言われるかもしれないが、読者は召使ではなく、本を読む行為
への参加者なので、無自覚な猥褻感は、やはり困るのである。
 白州正子や向田邦子の悪口を言うと人非人扱いされそうな空気を
感じるのだが、上記2冊を非難するのも似たようなものか。

 つい悪口に走って、秦早穂子の本がどこかに行ってしまう。
 秦早穂子は、単調で退屈になりやすい自伝風小説を、いかにスリ
リングなものに書き得たか。1945年(昭和20年)8月15日で、戦前と
戦後の日本、及び彼女自身を折り畳んでしまったのである。

 お家の中は知的でリベラル、しかし固い山の手の空気(大人の生活と
子どもの生活は截然される)に満たされ、父の友人や先輩宅にも同じ
空気が流れているが、学校や世の中は軍国主義一辺倒になろうとして
いる時代に少女期を過ごす。この部分は「舟子」という仮名・三人称で
描かれる。もはや還りようもない過去である。
 戦後、没落した親の庇護は求め得ないが、その代わり、自力で生き抜く
自由を手に入れた一人称の「私」は、ヨーロッパ映画の買付けを仕事に
する。
 三人称の章と一人称の章が交互に続き、執筆時の現在へと向い、
最終的に「彼女」と「私」がひとつの章で合体するまで、が描かれる。
 ひとりの女性の自伝でありつつ、戦前と戦後でふたつの異なる生を
生きざるを得なかった日本人の肖像というパースペクティヴを持つ、
エレガントな力技である。うつくしい。

 後にヌーヴェルヴァーグという名称で規定されるできごとの発生する
瞬間に立ち会い、清冽な輝きを目にする彼女だが、輝きが一瞬のもので、
すぐに生きる惰力に抵抗できなくなる過程も目撃する。生きている限り、
それは避け難く当然の事態なのだが、戦前と戦後の、特に大人たちの
変わり様に怒りを覚え、怒りを持続させることが生きるエネルギーでもある
秦早穂子にとって、美から鋭角性が失われるのは、辛い事実であり裏切りと
感じられるのではなかろうか。

 「影の部分」というタイトルをどう解釈するかだが、わたしは、映像と
映像の間をつなぐ黒みと受取った。

     (リトルモア 2012初 帯 J)

(6月15日に続く~)

2016/02/25にも続く~

2016/07/19にも続く~





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by byogakudo | 2014-06-14 21:19 | 読書ノート | Comments(0)


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