2014年 06月 15日

秦早穂子「影の部分 La Part de l'Ombre」に追加

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(~6月14日より続く)

 秦早穂子の名前は子どもの頃から知っていた。母が取っていた
「婦人画報」の映画紹介欄などで目にしていたし、小さなモノ
クローム写真だったが、壁に鏡を張ったパリのキャフェに、ジャン
クロード・ブリアリたちと坐っている写真も覚えている。

 また横道に逸れるけれど、1960年代の「婦人画報」は生き生き
していた。今ではけして読めそうにない細かい活字が主流の時代で、
それはジャンルを問わず、どんな雑誌でも老眼なんぞ無視した字組、
段の拵えで、紙面いっぱいにぎっしり組まれた活字の量は、壮観でも
あった。やがて雑誌はグラフィック性の追求になり、写真を活かそうと
大判になる。(そして今の、べたっと持ち重りがして、持ち上げようと
すると、しだらなく垂れる、表紙の文字には蛍光色のピンクや黄色が
散乱する、娘や孫娘がいないおかげで、あんな醜いものが部屋の中に
持ち込まれなくてよかったと、わが身の幸福を実感させる代物の時代に
なるのだが。)
 松本弘子というカルダンのモデルになってフランスで結婚した女性が
里帰りして、日本の電気洗濯機の便利さに感動し__まだ二層式の
頃だが、フランスの家電普及率は日本みたいな高度経済成長的速度を
持たず、1970年になっても、わたしの男友だちの家にTVはない。__、
なんとか(おそらく)船便で持ち帰りたいと願ったという記事もあった。
 ほんとにどうでもよいことしか覚えていないが、映画評論家としてのみ
知っていた秦早穂子の硬派な姿勢に触れたのが「影の部分 La Part de
l'Ombre」である。

 今も昔もパリに憧れる、ふわふわしたお嬢さんには事欠かないだろうが、
仕事先としてパリに渡り、暮してきた秦早穂子のスタンスはまるで違う。
 日本で受け入れられそうで、しかも紹介する意味のあるヨーロッパ映画を
買い付けることを仕事とするので、三ヶ月パリにいたら一週間であれ東京に
戻ることを本社に要求する。パリに行きっぱなしでは、日本の動きに疎くなり、
映画を輸入選択する目が狂うからだ。

< 妻の祖母の遺産二千万フラン(旧フラン)を投じて自主監督したという
 作品は、クロード・シャブロルの仲間のうちでは、かなり評判になっていた
 らしい。風が吹いてくるのを舟子は肌で感じる。この風だ。若い人たちが
 映画を作る可能性について書いた新聞記事を日本に送るが、いつの間にか、
 伯母さんの遺産で映画を作りたくても、その伯母さんがいない。それが
 日本だというオチになってしまった。
  一方、特派員となった出版社に送ったある女三代のルポルタージュは、
 没になった。戦前のブルジョア階級のある母親。その娘は戦争中にドイツ
 の男を愛した。彼女は戦後フランス人と結婚し、ひとり娘を生んだが、
 夫はアルジェリア戦争から帰ってこなかった。舟子はこの一家をかなり
 時間をかけて見つめてきたのだが、暗いややこしい主題は必要なし。
 日本の女の読者には、パリへの夢と憧れがまずポイントと婦人雑誌の
 ベテラン編集者は手厳しい。日本がフランスに投げかける視線は、つねに
 固定化した感傷的主題なのだろうか。>(p322~323)

 世の中を動かすのは大の男であって、女子どもは消費者として或いは
男たちの愛玩物としてのみ存在理由があるとされていた時代に仕事を
する女たちは、怒りと諦めと注意深さで武装し、闘い生きる。
 戦争に狩り出されはしなかったが生存を脅かされ、生き残り、新たに
生き直さなければならなかったアプレゲールの強さと粘りである。

     (リトルモア 2012初 帯 J)





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by byogakudo | 2014-06-15 18:13 | 読書ノート | Comments(0)


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