猫額洞の日々

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2014年 09月 21日

子母澤寛「玉瘤」読了

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 やっとパソコン中毒が一段落したのか、それとも風邪気味で昼間も
横になっていたから自動的にそうなるのか、子母澤寛「玉瘤」を読み
終える。
 子母澤寛では、いまだ「愛猿記」と「二丁目の角の物語」が好きだ。
どうやらわたしは、時代小説作家の本業ではなく、エッセイが好きらしい。
池波正太郎もエッセイしか読んでないし、積極的に「鬼平」や「剣客商売」
を読んでみたいとも思わない。

 あれっ、岡本綺堂の「半七」は時代小説なのか? 綺堂のいう「読み物」、
奇譚や、幕末の風俗も同時に描く捕物帖は、時代ミステリではあるが、
時代小説とは言わないのか?

 誰も見たことのない幕末、その意味では未知の世界ではあるが、人間の
感情はあまり変わらなかった(と思われる)幕末を舞台にしたほうが、古き
よき時代であったと書きやすいだろうし、登場人物たちを声高に喋らせなく
とも、以心伝心、互いにそっとしておく心遣いの奥ゆかしさも描きやすそう
である。

 スマートフォンのメールで連絡し合う現在を舞台にしたって、人情話は書け
なくはない。ニューヨーク人情話であるマット・スカダー・シリーズも、後に
なるほど、パソコンや携帯電話の登場と、主人公との葛藤を描写しなければ
ならない。それはそれで物語にうまく絡めて書いてあり、風俗小説の面目躍如
たるものがあるが、最新作「償いの報酬」ではパソコンなんて存在しなかった、
どこかで存在してはいたけれど、日常生活を侵蝕していなかった古きよき時代の
回想である。
 現在はつねに切っ先が鋭いから、ひと昔ふた昔前を舞台にしたほうが、読者を
しみじみほっとさせる世界を作り出しやすい、ということだろうか。じゃあなにか、
ポケットベル時代にしたほうがアイフォーン時代に設定するより、ノスタルジック
な世界が描けるかというと、そうはいかない。現在に近すぎる。

 ある程度の距離、自分の祖父母がもしかして暮していたかもしれないような
時代設定なら、適度であろう。幕末維新を体験している祖父母がいる世代も
死に絶えているが、(古墳時代に設定したりするとファンタジーの要素が強まり、
いわゆる人情を描くのに不適切だろう。)幕末辺りなら、今となんとなく地続き
みたいな気もするから、そのころには細やかな人情が交換されていたとしても
おかしくないと、読者も作者も同意できる、幕末を舞台にした時代小説が書き
続けられるのだろうと、読んだことのないわたしが言っている。

 子母澤寛「玉瘤」は、自在な書きっぷりを楽しむ時代小説集だろう。
 『玉瘤』では、講釈師の講釈口調と地の文章の入れ替わりがさりげなく
巧妙だ。幕末のできごとを、三人称の小説と、辻講釈師の語る物語とを
重ねながら描く。
 『香亭先生伝』では、三人称小説の間に小笠原長生の聞き書きが入り、
さらに聞き書きに対する作者の反応が、<作者云う。>として脚注的に
差し挟まれる。小説はたしかに、どんな風にでも書いて行ってよいのだ。

     (新潮社 1965初 函)





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by byogakudo | 2014-09-21 20:57 | 読書ノート | Comments(0)


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