猫額洞の日々

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2014年 09月 29日

シオドア・スタージョン「人間以上」再読・読了

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 目にはさやかに見えないが、昨日も今日もどこからか金木犀が
漂ってくる。ちょっと用足しに出て、すぐにバテ果てる。

 超能力といわれるものは、ヒトの進化の過程で不要になり退化した
能力をいう。言葉を得たのでテレパスである必要はなく、ものをテレ
ポートさせなくとも、二足歩行して余った腕や手・指で掴んで動かせば
いいし、機械を作って、それにやらせてもいい。
 だが進化には退化という方向もある。退行能力だけ発達したヒトビトが
存在する。蒙古症の白人の赤ん坊(聞かれればコンピュータ的能力を発揮
する)、唖の黒人の双子の姉妹(テレポートできる)、ふだんは無口だが
口をきけば辛辣なことをもらしてしまう白人の少女(テレパスなので、赤ん坊
の答えを仲間に伝えられる)、そして彼らをまとめ上げ、ひとつのゲシュタルト
生命形式として存在させたのが、眼力で他の普通の人々を動かせる、白痴の
白人青年と、彼の死後、若すぎて跡を継いだのでゲシュタルト生命体を崩壊
させてしまった、同じ能力を持つ白人少年。

 ひとりずつでは無能力者だが、集まって一個体をなすと超人類になる存在は、
普通の人々からは侵略者と見なされかねない。人類と超人類との共生は可能か、
という物語でもある。彼らと関った普通の人々は、あるいは殺され、あるいは
狂わされるが、これらの人々もまた孤独でひとりぼっちの存在、社会のミスフィット
たちである。

 SFは、孤独な少年たちが屋根裏部屋で紡ぎ出す孤独な夢想という背景を持つ。
スタージョンの世界では、ここはわたしの場ではない、という痛切な思いがストレート
に述べられる。読んでいる間だけは、本と読者との間に橋がかかり、わたしたちは
孤独でありながらひとりぼっちではない。傷をなめ合うのではなく、孤独であること
が、そのまま肯定される。

 超人類によるゲシュタルト生命体ではないが、普通の人類も、ときに調和のとれた
理想の生命様式、テンポラリな共同体を持ち得る。すぐに思い出すのが、ハワード・
ホークス「リオ・ブラボー」で、役目が終われば解散して、けして共同体の維持を
指向しない。各人が孤独でいられる社会こそ、目指すべき社会である。(映画や
本の中に理想の共同体を見いだすけれど、現実には恊働しようとはしないのが、
わたし。)

 2006年3月1日以来、久しぶりに読んでも面白かった。

     (HPB 1965再 VJ無)





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by byogakudo | 2014-09-29 16:25 | 読書ノート | Comments(0)


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