2014年 10月 27日

山本夏彦/久世光彦「昭和恋々」読了

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~10月26日より続く

 1980年で時間の流れが変わった。流域が変わり、ちがう時間の川が寸断
されながら流れる、あるいは一時停止と再開を繰り返しながら流れるように
なった。それ以前は長いスパンでいえば、幕末明治からそれほど変化しない
時間が流れていた。

 大正4(1915)年生れの山本夏彦の記憶にある「髪床」(p29)も、昭和10
(1935)年生れの久世光彦の語る「サインポール」(p136)のある床屋さんも、
彼らは東京っ子であるが、戦後昭和生れ・田舎町育ちのわたしにも、全部わかる
世界である。あまり見覚えがなかったとしても類推可能な、かつてのありふれた
日常だ。

 異界のひと「虚無僧」(p202)が怖かったのはわたしだけでない、昭和14、5年
ころ、5歳くらいの久世光彦少年も同じ恐怖を抱いていた。
 ひと、もの、できごと、細々とした詳細な細部だけで綴られた昭和史にもなって
いるが、"傷痍軍人"というトピックがないのはなぜだろう。政治的になるからと、
意識的に避けられたのだろうか?

 久世光彦の前書きに、<向田邦子は、突然現れてほとんど名人である>と山本
夏彦が絶賛したと、ある。
 向田邦子は一、二冊読んだことがあり、ある時代を共有できる読者にとっては
親密な"物語"だろうと思ったけれど、"小説"としては認められなかった。幸田文
の「流れる」が"小説"として認められないのと似たような理由で、素材に寄り
かかって成立する"小説"世界では、しょうがないだろう、と思ったのだ。
 何だったか忘れたが、夜の電車の窓に映る顔の陰影、暗さが記されていたが、
そこに気づいた作者が自分から「ブンガク的な観察でしょう?」と言ってるように
感じられて、異議申立てしたくなったのだ。"ブンガク的"感受性かもしれないが、
そんなもの"文学"とは何の関係もない、小手先の技芸ではないか、と。

 個人が所有するのは記憶だけ。思い出だけが、ある世代間の共通言語になる。
ノスタルジーの魅力と限界とを伝える一冊だ。

     (山本夏彦/久世光彦「昭和恋々 あのころ、こんな暮らしがあった」
     文春文庫 2003年3刷 帯 J)

10月28日に続く~





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by byogakudo | 2014-10-27 20:32 | 読書ノート | Comments(2)
Commented by saheizi-inokori at 2014-10-27 21:52
久世は向田命ですからね。
山本夏彦もあれでなかなか売るコツを心得た人だと思います。
でも、だからか、面白かったな。
Commented by byogakudo at 2014-10-28 20:56
あれは歳時記「冬」みたいなTVドラマでしたね。


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