猫額洞の日々

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2014年 10月 30日

高見順「敗戦日記」3/4

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~10月29日より続く

 1945(昭和20)年7月28日、読売新聞のポツダム宣言記事の引用。

 8月7日、高見順は新橋駅で義兄に会う。「大変な話」を聞いたかと
義兄が言う。歩廊のひとのいないところへ連れてゆかれ、広島に原子
爆弾が落とされた、と教えられる。(p275)

 8月8日、新聞が届かないまま東京に出かけ、今日出海に会う。彼に
よれば新聞の記事では原子爆弾ではなく「新型爆弾」で、あっさりした
記事内容だった、と。

 8月9日、9日付け毎日新聞には、やや詳しく(?)、広島を視察した
赤塚参謀の噴飯ものの談話がある。__
 警報が解除されたので防空壕から外に出て、油断しているときに
新型爆弾を落とされた。
 この新型爆弾は熱線の威力が強く、爆風圧が従来の爆弾より強烈
であるが、これは日本でも研究され実体もわかっていた程度のものだ。
上空から地面に及ぼす垂直爆風圧の威力が大きかった。
 だから地下壕に潜み、全身を覆う服装(二枚以上の重ね着)、防空
頭巾、手甲、脚絆、顔面も覆い、地下壕奥で伏せていれば大丈夫だ。
(p283~284)
__ハリウッド映画では原子爆弾とは超大型爆弾である、という了解の
もと、巨大隕石を追い払うためなどに使用されているが、あれの先祖
みたいな認識である。

 午後、当番の日なので「鎌倉文庫」に行くと、
<続々と会員申し込みがある。会員は三ヶ月間の読書料前払、十一月八日
 までというわけだが、十一月八日まで一体この店が存在しているだろうか。>
(p285)
 急ぎつけ加えると、5月27日付けに、店番を一日ずつ当番制にする話がある。
27日川端、28日中山[注:中山義秀]、29日久米、30日川端...といった塩梅。

 4pmころ、自転車に乗ってやってきた林房雄に、ソ聯参戦の報を知らされる。
その後、永井龍男が来る。
<東京からの帰りに寄ったのである。緊張した表情である。長崎がまた原子爆弾
 に襲われ広島より惨害がひどいらしいという。
 [中略]
  店は何の変りもない繁昌である。知らないせいか、知っていても平然としている
 のか。山村、小泉両君に、ソ聯参戦のことを、そっと紙に書いてしらせた。人が
 いっぱいいる店で、何か声を出していうのがはばかられた。>(p287)

 うっかり読み過ごしていた箇所がある。東京に焼跡を確認に行った際、たとえば
3月6日では、
<まだ夜の扉がおりず、銀座通りが丸見えなのだが、まるで人通りというものが
 なく、陥落直後のラングーンが思い出された。>(p118)とか、
 6月15日、
< 沖縄では、女が闘っている。本土もやがてそうなるのだろう。>(p215)、
こういった箇所である。

 戦争というとすぐ、自分の頭の上に焼夷弾が落ちてくる場面が目に浮かぶ。
映像的な刷り込みだ。夜中でもいつでも逃げられる服装で横になり、空襲
警報下、絶え間なく落ちてくる焼夷弾から逃げ惑う。または焼け死ぬ。
 日常の生活の場がすなわち戦場であり、戦争はそういうものと頭で思って
きた。(戦後民主主義で育ってきたからだろうか。)

 実際に戦争を体験した高見順(たち)にとっては、戦争はまず、他処のできごと
として存在する。大東亜共栄圏イデオロギーでは中国や東南アジアも、日本の
一部、外地に属するが、戦争はそんな遠い他処で起きるできごとだ。
 "出征する兵士を見送る"という言葉で表されるような、友人が外地で戦死した
と聞かされるような、よそごとだった。
 毎夜、各地が空爆される事態になってやっと、戦争は内地(本土)で起きる
できごと、自分たちがいる場が戦場になるのだと、高見順(たち)は知らされる
が、その認識が言語化、意識化される時間があっただろうか。

 戦中派・戦後派で"戦場"の規定が違っていたことに、今ごろ気がつく戦後派だ。
戦後69年、戦後生れもまた、頭で戦争や戦場を理解するだけ、よそごととしての
戦争を生きてきた。

     (高見順「敗戦日記」 中公文庫 2005初 J)

10月31日に続く~





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by byogakudo | 2014-10-30 20:03 | 読書ノート | Comments(0)


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