2014年 11月 20日

トム・ウルフ「バウハウスからマイホームまで」読了

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~11月19日より続く

 第一次大戦後、失われた世代がパリのアメリカ人としてヨーロッパ
文化と交流する。第二次大戦中、ナチに迫害されたヨーロッパ人たち
(アーティスト、アーキテクト、思想家、知識人等々)がアメリカに
亡命する。
 それ以来、アメリカの知的階層は、アメリカがヨーロッパ文化の
植民地であることを受け入れてきた。その認識は、執筆時の1980年代
まで続いている。

 というのが時系列のアウトライン。中身は、"銀の王子"グロピウスや
"輝く都市"のル・コルビュジエたちに代表される建築上の、あるいは
建築に関する理論上の路線から外れることなく、その支配・影響下で、
アメリカの建築は続いてきたことのレポートだ。

 近代美術館の展覧会カタログに収められた、アメリカ人によって書かれた
一編「国際主義(インタナショナル・スタイル)」は、植民地アメリカが本国
ヨーロッパに屈した事例を証明しようとする。フランク・ロイド・ライト
などのアメリカの建築家が作っているのは"建物(ビルディング)"に過ぎず、
ヨーロッパの、ミース・ファン・デル・ローエたち、つまり機能主義者たち
が手がけているのが"建物(アーキテクチャー)"である、という論を立てる。
(この場合、"建物(ビルディング)"と、"建築物(アーキテクチャー)"とでも
訳し分けたほうがいいと思うけれど。)

 機能が全面的に表現されたものこそ真であり、善であり、何よりも美
であると言いたいのだろうが、原理主義的なまでの純粋さへの意志__
むしろ純潔への意志、と解釈したくなる。リーフェンシュタールのナチ
映画とバウハウスとは、簡潔さ・純粋さへの指向の点で、どれほどの
差異があるだろう? 同じ根っこではないかしらと、いま思う。__
だが、すでにミース・ファン・デル・ローエの時点で、純粋さ追求には
裏技というか、不純物が侵入している。[同日追記: この裏技ないし
レトリックがポストモダン建築を理論づけるのかしら?]

 建築(アーキテクチャーであれビルディングであれ)は、紙上建築なら
ともかく、施工過程が存在するので、理念だけではあらしめられない。
 材料はガラスと鋼鉄だけ、色彩は白と黒と灰色のみ、形態は直線のみ、
のミニマルな建造物に、消防法が不粋な横やりを入れるとき、ミースは
いかに闘ったか、またはあしらったか。

<アメリカの防災基準によれば、鋼鉄の柱梁(ちゅうりょう)はコンクリート
 などの耐火材でくるまなくてはならない。
 [中略]
 シカゴのレイクショー・ドライヴで、一群のアパートを手がけたとき、彼は
 抜け穴をみつけている。鋼鉄の柱はコンクリートでくるむべしという規則
 を守って、しかも鋼鉄の柱をむきだしのままにするには、どうしたらいい
 のか。まず、おとなしく鋼鉄の柱をコンクリートでくるみ、そのうえで鋼鉄
 の柱、H字形の鋼材をたてに張ればいい。「ごらん、これとおなじのが
 なかにはいっているんだ」。それにしても、建物の外側に張るとは。
 いつぞや、よけいな装飾ときめつけられたのは、まさしくこのことでは
 ないのか。いったい、どうすれば、この手のものが機能的だといえるの
 だろう。という問題については、問題にするほうがおかしい。機能の本質
 は、周知のように機能性とはなんのかかわりもなくて、どれだけブルジョワ
 ではなくみえるかという一点にある。問題とされるのは、この装飾ならざる
 H形鋼をしのいで、誰かがもっとブルジョワではない細工を首尾よくやって
 のけられるかどうかだ。>(p107~108)

 全編、こんな調子のレトリカルな文体で論が進められるが、まじめな本。

 労働者のためにより良い生活環境を提供しようと、第一次大戦の瓦礫の
中のヨーロッパに始まった共同体運動でもあるバウハウスなどが、豊かな
アメリカの地に移植され、変質し、専横的ドグマ化して、誰にも喜ばれない
建物ばかりが作られてきた皮肉な状況のレポートだ。

 シンプルで機能的な(機能だけに特化した)労働者用住宅は、当の労働者
たちには好まれず、住んでいるのは生活保護を受けている人々だけだが、
彼らにも愛されていない集合住宅で、スラム化しやすい。
 労働者たちは、お金ができると(ローンが組めるようになると)さっさと
郊外の戸建て住宅に越して行き、陸屋根ではなく杮(こけら)板葺きの勾配の
ある屋根、下見板張りの家に住み、ごちゃごちゃとモノにまみれた、趣味の
悪い私生活をおくることを好む。ティム・バートン映画に出てくる悪夢の
ような、郊外住宅群で。

 労働者用住宅の理念を生かした高層の集合住宅が大都市に建てられるが、
そこに住むには昨日書いたように、お金持ちでなければ入れそうもない値段
なので、言いくるめられた、またはスノビスムに雁字搦めになった有産階級が、
最初は労働者のためにデザインされ、80年代当時(?)では3.465ドルもする
ミースのバルセロナ・チェアをあしらった生活をする。

 どこかで何かがズレたまま、こういう街並ができてしまったのだが、アメリカ
だけが不幸なわけはなく、日本を見ろと言いたくなる。

 大川端の超高層ビルの内装がどうなってるか知らないが、3・11を忘れた
みたいに、あのときエレヴェータが止まって、ハイライズしてればしてるほど
大変な日常を過ごしたはずだが、あの記憶でさえ忘れられたらしく、次々に
超高層ビルがラッシュして、佃島の風景を見下ろす。
 第二次東京オリンピックに使うお金があれば、フクシマに全力をこめる
べきだろう。被爆しながら作業を続ける人々に、せめてまともな賃金を支払い、
東北の被災地の街並の再生(仕事と住宅を同時に作り出すことはできないか?)
に使われるべきだろうが、お金は手軽に確実にお金を再生産する方向でしか
動かない。

 敷地面積から見れば安くはなさそうな"メルヘンな"戸建て住宅や、狭い敷地で、
1階は入口と駐車スペース、2階と3階が居住空間に充てられた戸建て住宅(玄関
までに階段が数段あるし、内部にエレヴェータ・スペースがないのは明らかで、
ローンが終わり、年をとったとき辛くないかしらと、ひとごとながら気になる)、
築30年は経っていそうなアパートが目に入る界隈でも、駅に近い辺りでは古い
ビルを壊している。ますます混沌とした街並になるだけだろう。

 シンプルなインタナショナル・スタイルのビルばかり並んでいる、同じ様式が
建ち並んでいるだけでも、いいじゃないかと思うけれど。

     (トム・ウルフ/諸岡敏行 訳「バウハウスからマイホームまで」
     晶文社セレクション 1984年4刷 J)





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by byogakudo | 2014-11-20 21:57 | 読書ノート | Comments(0)


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