2015年 02月 15日

小林信彦「袋小路の休日」に追加

e0030187_17182162.jpg












 悠玄亭玉介を読んでいて、片岡義男「彼女が演じた役__
原節子の戦後主演映画を見て考える」を一時中断している。

~2月6日より続く

 先だって読んだ小林信彦「袋小路の休日」で、思いついた
ことがあるので書いておこう。

 特に『北の青年』がそうなのだけれど、これらの風俗小説は、
書き方と方向性を少し変えれば、すぐさま幻想と怪奇系の短篇
小説に変わるのではないか。

 近過去から始まり、そこから更に以前のできごとに入って行く、
過去を重層的にしつらえる書き方は、このままで。
 そこで"北の青年"を登場させ、読者に紹介する遣り方も、これで
いいのだと思う。青年に案内されて、まだ九龍城があった頃の香港を
うろつき回り、青年のことも知るようになる。
 ここで急がずに、青年像が少しずつ現れ、読者が自ずと、物語の
話者と青年像を透かして見るような、ゆっくりした書き方をすれば、
青年のイメージはもっと巨大な、うつろな影として存在し得たのでは
ないかしら。

 中華人民共和国という共産主義国家から、15歳のとき、豊かな消費
生活が身の回りにある香港に移住してきた青年に重ねて、15歳で敗戦
を迎え、いきなり状況が変化した話者自身の過去を、性急に言及する
箇所(p57~58)の辺りを省くか、書くとしたらいちばん最後に持って
くるかすれば、この題材は幻想小説になるのではないか。

 ただ、性急な書き方は、経済成長期の、何かに追い立てられるような
働き方をしない訳に行かなかった日本人像の表出として必要だったし、
息せき切った経済成長は、その後の中国を襲った、今現在のできごと
でもある。

 アーサー・マッケンの怪奇小説も、帝国主義下の、当時としては忙しない
ロンドンが舞台だが、あの主人公たちは遊民だから、怪奇な穴にも落ち込む
"ゆとり"があった。来た仕事を次々にこなさないと生活できない、1960年代
日本のフリーランサーが話者/主人公では、やっぱり怪奇小説への方向は
むずかしいか。

 それに怪奇小説にしてしまうと、どの短篇にも、といっていいくらい頻出
する、喫茶店の席に着くなり、<おしぼりで顔を拭く>男の描写ができなく
なってしまいそうだ。仕事で忙しい(忙しがっている?)男の描写として、
あの時代の記録としての風俗小説には、"おしぼり男"をぜひ残しておきたい。

 今では、個人経営の喫茶店がほぼ消えつつあり、全国展開する、マニュアル化
されたシステムのカフェ・チェーンばっかりだ。何か食べ物も頼んで、さらに、
 「手を拭きたいのでウェットティシューを下さい」と言わなければ、小さな
紙製のそれすら手に入らない。あれでは顔なんぞ拭けない。
 客が着席するや、タオルのおしぼりを水の入ったグラスとともにテーブルに
置き、
 「ご注文は?」と尋ねる喫茶店は、どれくらい残っているのか?

     (小林信彦「袋小路の休日」 中公文庫 1983初 J)


______________________________

 曾野綾子のアパルトヘイト容認発言? 駄馬が馬脚を現しただけだ。
 
 日本に逃げてきたフヒモリを同じカトリック教徒としてか、日本財団会長
職故にか、匿ったが、これはペルー側から見れば犯人隠匿罪ではないか?
 バチカンがナチに融和的だった過去に倣った行為だろうか。

 右翼はけして論理を展開しない。原理原則に基づく問題を、日常の問題に
引き摺り落とし込んで、その範囲であれこれ言う、"大衆"迎合路線をもっぱら
とする。パスポート回収事件を、「ひとさまにご迷惑をかけかねないことは慎ま
なくっちゃいけないでしょ」と、卑猥なまでに矮小化するのが、これら右翼の手口。
 





..... Ads by Excite ........
[PR]

by byogakudo | 2015-02-15 17:14 | 読書ノート | Comments(0)


<< 片岡義男「彼女が演じた役__原...      どこからどこまで"大... >>