2015年 02月 16日

片岡義男「彼女が演じた役__原節子の戦後主演映画を見て考える」読了

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~2月12日より続く

 日本語からも映画からも少し離れて、片岡義男は女優・原節子について、
映画について、小津安二郎・作品に見られる小津の"癖"について語り、
敗戦後の日本の近代について述べる。見るために、そして語るためには
距離が欠かせない。

 『晩春』の中で、映画、というよりフィルムについて語る箇所がある。

< 映画とは、完成された状態では、一本のフィルムだ。
 [中略]
 それを映写機にかけ、暗いなかで大きなスクリーンに光を使って
 映写されるのを観客が見るという手の込んだ仕掛け、それが映画だ。
 [中略]
 フィルムの駒のなかにカメラで撮影するということは、たいへんな不便の
 ともなう作業だ。制約はものすごく大きい。
 [中略]
 そのときそこにあるものは、レンズの画角内なら、そして光量が充分なら、
 すべて映る。そしてそのときそこにないものは絶対に映らない、[以下略]。
  「映画はみんなおなじだよ」と、小津安二郎はかつて言ったそうだ。
 [中略]
 あるものはみんな映る、ないものは映らないという対置の関係は、どの映画
 にとっても等しく存在する制約なのだから。
 [中略]
 カメラやフィルムの制約、そして映し取るという制約ないしは不便さ、さらには
 それらの制約や不便などを、観客の映画理解能力として逆手に取るかたちで
 自在に利用するという局面も、すべての映画に共通している。
 [中略]
  観客の側における映画理解能力とは、たとえば製作する側にとっては、省略の
 問題につきると言っていい。
 [中略]
  巧みな省略で時間を飛び越えることによって、観客の気持ちは、積極的に、
 つまり確実な共感をともなって、映画のなかで起こりつつある一連の出来事の
 前へと進んでいく。次になにが起ころうとも、それを共感とともに無理なく受け
 とめる用意を頭のなかで一瞬のうちに整えるというかたちで、観客は映画のなか
 のドラマの進展を先取りする。省略にともなうこの先取りによって、ストーリー
 の展開は観客の頭のなかで滑らかに流れる。相当に強引な、かなり無理のある
 展開であっても、観客はそのことに気づかない。>(p155~156)

 どんなアートも、一種の信用詐欺だ。観客の自発的参加があって成立する事情、
塩梅を、日本語で能う限り正確に述べようとすると、上記の引用文みたようになる
だろう。

 日本語への距離の測定レポートとして、面白く読んだ。

 『東京物語』で、東山千栄子が原節子のアパートメントに泊まる場面__
片岡義男は、原節子と笠智衆(ともう一人、同じ役名の男優)以外の役者名を
文中に出さないが__
< 消しましょうか、と紀子は言い、すでに敷いてある布団からパジャマとしての
 浴衣姿で立ち上がり、電灯のスイッチをオフにする。>(p214)

 たしかに浴衣は夏の夕べ、ちょっと外に涼みに出たりするときにも着られるし、
ややくたびれてくると寝間着にしたりするから、この場合は、<パジャマとしての
浴衣姿>が状況の曖昧さを避けるには必要な註釈である。たいていの日本人は、
日本語に距離がないので、<布団から浴衣姿で立ち上がり>とあれば、寝間着に
なった浴衣であると諒解するのだが。

     (片岡義男「彼女が演じた役__原節子の戦後主演映画を見て考える」
     中公文庫 2011初 J)





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by byogakudo | 2015-02-16 20:27 | 読書ノート | Comments(0)


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