猫額洞の日々

byogakudo.exblog.jp
ブログトップ
2015年 03月 14日

鹿島茂「パリ・世紀末パノラマ館」読了

e0030187_216175.jpg












 寝しなにポツポツ読んでいた。第3章までは、世紀末のパリの風景が
事細かにリアリティを持って記述される。ある時代は細部によって表出
されるものだと、よくわかる。

 『第1章 世紀末パノラマ館』の『13 自動車 主人と運転手__
主従関係が変容』では、<運転席が吹きさらしの当時の自動車>(p51)
の写真が示される。

<現在とは決定的に異なっている点がひとつある。それは、馬車と
 同じく、運転席が吹きさらしになっていることである。つまり、
 主人が乗る後部座席には馬車のように箱形の固定屋根やほろが
 ついているのにたいし、運転席は御者席と同じように雨風にさら
 されているのである。
  これは、主人と召使が同一空間にいることを絶対に容認しない
 当時の厳格な階級意識をそのまま忠実に反映しているが、それと
 同時に、自動車というものが上流階級のスノビズムを満たすための
 選別的な乗り物であった事実も雄弁に物語っている。
 [中略]
  しかしながら、テクノロジーが進歩し、風力抵抗がスピードダウンの
 原因となることが理解されると、運転席は客席と同一空間に収納される
 方向にむかっていく。
  この変化は、思っているよりもはるかに重要である。なぜなら、これ
 以後、運転手は、主人と秘密を一にする一種の共犯者となるからである。
 『失われた時を求めて』の中に微妙な形で表現されているプルーストと
 運転手アゴスチネリとの関係は、こうした主従関係の変容を抜きにしては
 論ずることができない。>(p49~50)

 『失われた時を求めて』は、他にも風俗傍証として引用される。そうか、
風俗小説として読む手があるんだ! 長いからなあ、でも読まずに死んで
いいのだろうかと、ときどき、自責の念に駆られながら生きてきたが、気が
楽になった。

 同じく『第1章』の『7 鉄道と読書 密室に長くいる方法』では、
鉄道の速度が馬車に較べて速すぎて、乗客が窓外の風景を味わえなく
なったと、記される。そして、

<一、二等車には、各々のコンパートメント(定員三人および六人)
 をつなげる縦の廊下がついておらず、ドアはそれぞれ外側から鍵を
 かける構造になっていた。
 [中略]
 密室空間に長時間幽閉される旅行者にとって、これ[注:読書]だけが、
 会話をせずに未知の乗客と一緒にいるのを可能にする方法だった。>
(p31~32)という事情が語られる。

 見知らぬ他人との同一空間の共有といえば、エレヴェータだ。気ぶっせい
を避けて、携帯電話やスマートフォンにしがみつくのも無理はない。大抵、
暗めの照明だから本に逃げるには適さないし。

 楽しいエピソード集かと思っていると、『第3章 失われたパリを求めて』
からトーンが少し変化する。パリ大改造の歴史が語られ、『第4章 快楽の
共産主義』に至って、改造の思想的背景、サン=シモンとフーリエについて
の記述である。名前は聞いてるけれど、こんなにハードコアな変人だとは
知らなかった。

 『第4章 快楽の共産主義』から引用__

<サン=シモンは、アダム・スミスとは異なって、自由・放任こそがベストだ
 とは考えない。なぜなら、無秩序なエゴイズムが支配する社会は益よりも
 害を生み出すからである。したがって、資本家と労働者がキリストの教える
 ように「互いに愛しあう」一種の相互的扶助システムが生まれることが望ま
 しいが、それは観念的レベルのことではなく、あくまでも現実的な利益の
 レベルにおいてでなくてはならない。なぜなら、現世的利益以外には人間
 活動の目的はないからである。そのためには、まず産業による利益追求こそ
 が人類の幸福をもたらすという産業信仰を前提に据えたうえで、資本家と
 労働者に、ともに相手の利益に心を配りながら産業に専心することが自分
 たちの利益にも通ずるということを教える「新キリスト教」をつくる必要が
 ある。こうしてサン=シモン主義は必然的に、皆が負担と利益を分かちもつ
 「株式会社」という形態をとった「サン=シモン教会」へと発展することに
 なる。>(p261~262)

 フーリエの「情念引力」の話__『四運動の理論』、昔々70年頃、流行った
1冊だが読んでいない__も、なんというか唖然とする。

< 人間の情念は現在の社会においては利益よりも害毒をもたらすことの
 ほうが多いが、それが「ファランジュ」と呼ばれる理想的共同体が住む
 「ファランステール」に収斂されると、人類の歴史を百八十度転換する
 ほどのエネルギーに転換されるとフーリエは宣言する。>(p265)

 <現実の社会集団にあってはさまざまな弊害を生み諸悪の根源と
 みなされている[略]三つの情念は、ファランジュにあっては、
 「真の英知」を生むもとになる[以下略]>
とある。ダイジェストを読みながらつい、「馬鹿と鋏は使いよう」という
ことわざを思い出してしまったが、たとえば「密謀情念」の使い方は、

<栄光を得るためにいくつかの徒党が冷静な計算に基づく陰謀を
 めぐらして競争することにその本質があるので、ファランジュの
 類似集団の間に競争、対抗を引き起こすような労働組織をつくれば
 情念が解放されてエネルギーへと転換する。>(p268)そうだが...。

 この種の理論はいつも、広告代理店的資本の論理に寝取られ、新たな
搾取のネタ理論に適用され、グロテスクな変貌を遂げそうな気がする。
 ダイジェストでなくて翻訳を自分で読んでみれば、また違う感想を持つ
かもしれないが。

     (鹿島茂「パリ・世紀末パノラマ館 エッフェル塔からチョコ
     レートまで」 中公文庫 2000初 帯 J)





..... Ads by Excite ........
[PR]

by byogakudo | 2015-03-14 18:58 | 読書ノート | Comments(0)


<< 今日もリハビリ散歩/中野往還      税務署行き/木村荘八のお墓 >>