猫額洞の日々

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2015年 03月 26日

坪内祐三「靖国」1/4

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 写真は、いつだったか、迷宮のような細い路地を歩いたとき。
1月3日だった。)あそこをもう一度歩こうと思って、たどり
着けるだろうか?

~3月25日より続く

<東京招魂社の直接の始まりは、慶応四年(一八六八)六月二日、
 「江戸城西丸大広間上段の間に神座を設け、官軍戦没(せんぼつ)者
 のための招魂祭を行な」ったことにある。
 [略]
 あくまで、「官軍」戦没者のためのもので[中略]
 「賊軍」の戦没者は、まったく数に入っていない。それらは文字通り、
 「邪霊」だったのである。この奇妙な合理性は、例えば、
 [略]
 会津藩は、蛤御門(はまぐりごもん)の変の時は勤王だったが、戊辰
 (ぼしん)戦争の際には朝敵となった。つまり同じ会津藩の兵士で
 あっても、蛤御門の変で亡くなった者は、この慶応四年六月二日の
 招魂祭で祀(まつ)られたが、戊辰戦争の戦死者たちは賊軍の邪霊と
 見なされたのである。>(p41~42)

 九段ではなく上野に、招魂社を作ろうとする動きもあった。
 木戸孝允の明治二年(一八六九)一月十五日の日記には、
<此土地を清浄して招魂場となさんと欲す。>(p43)と、ある。
 しかし大村益次郎が反対する。

<彰義隊の人びとが数多く命を落した上野の山は、祀られることの
 ない、いや、断じて祀ってはいけない、「邪霊」のさ迷う「亡魂の
 地」だった。それに対して、[注:九段坂は]もともとは火除地であり、
 [中略]
 土地に刻みこまれた記憶という点では、ほとんど無に等しかった。
 地霊的なものは何もなかった。つまり、江戸=東京という広大な
 時空間の中で、これからの未来に向って、新たな地霊を人工的に
 仕込ませて行くのに最適の空間だった。>(p44~46)

 さらには今に大型の馬車も行き来するようになるだろうから、幅の広い
道を造るにも、九段坂上の地が適している。

 また、九段坂上は山の手の外れ、下町を見下ろす位置にある。
 かつての武家屋敷跡である山の手に、新しい支配階級<薩長(さっちょう)
を中心とする明治官僚たち>(p54)が住み、
<従来の東京人(江戸っ子)たちは、><坂の下、下町へと囲い込まれて
行き、その結果、近代東京の、下町・山の手の住み分け地図が完成する。>
(p54)

<明治の新しい支配者の一人であった大村は、帝都となるこの街、東京を、
 「支配する側の視線から」眺め、再構成しようと考えていた。靖国神社は
 その象徴的空間でもあった。>(p57)
__坪内祐三は、今も残る大村益次郎の銅像、その左手に持つ双眼鏡から
パノプティコンを想起し、このように考察する。

     (坪内祐三「靖国」 新潮文庫 2004年5刷 J)

3月27日に続く~


 薩長政権のせいで戦争を繰り返し、やっと止めたら、次は経済成長と
いう名の戦争、その成れの果てにフクシマが起き、戦争準備国家になって
行く現在、詮ないことだけれど、徳川幕府による明治維新だったらなと、
ときに夢想する。
 





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by byogakudo | 2015-03-26 19:10 | 読書ノート | Comments(0)


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