猫額洞の日々

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2015年 04月 19日

ジャン=リュック・ゴダール/奥村昭夫 訳「ゴダール 映画史(全)」を『第三の旅』まで読む

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~4月15日より続く

 いわゆる『第三章』に当たる『第三の旅』の後半では、
<『極北の怪異」(ロバート・フラハティ)
 『神の道化師フランチェスコ』(ロベルト・ロッセリーニ)
 『ペルソナ』(イングマール・ベルイマン)

 『恋人のいる時間』(ジャン=リュック・ゴダール)>(p260)
の四つの映画(の抜粋)が取り上げられている。

 ゴダールは同じことを幾度となく言葉を変えて語っているが、この回
から引用してみる。ドキュメンタリーとフィクションによる映画の相違
について語り出しながら__

<フィクションというのはコミュニケーションのひとつの契機(モーメント)
 です......証拠品を受け取ることのできる瞬間(モーメント)のことです。
 そしてフィクションは、受け取られなければ、ひとに見られることのない
 証拠品にすぎません。証拠品は、ひとに見られてはじめて、フィクション
 になるのです。フィクションをつくりあげるのは視線なのです。このことは、
 警察のファイルやコンピューターにおさめられている証拠品はただの証拠品
 にすぎないということを考えれば、すぐにわかるはずです。警察には証拠品
 としての顔写真は何百枚とあります。そして警察官がそのなかの諸君の写真
 をじっと見つめながら、<<おい、おまえだな、これこれの日にこれこれの
 場所で年老いた母親を殺したのは......>>とつぶやくとすれば、そのとき
 はじめて、そこにフィクションが生まれるのです......諸君が母親を殺して
 いる場合は現実的なフィクションが、そうでない場合は非現実的なフィク
 ションが生まれるのです。フィクションというのは視線なのです。そして
 テクスト[この場合は犯罪調書]というのは、その視線が表現されたもの......
 その視線にそえられた言葉なのです。事実、フィクションというのは、感化
 [あるいは「刻印」]としてのドキュメントが表現されたものです。感化と
 表現は、同じひとつの事柄の互いに異なる二つの契機なのです。なんなら、
 感化は表現の契機に左右されるとも言えますが、でもひとは、この感化と
 してのドキュメントを見ることを必要とするときにはじめて、自分を表現する
 ことになるのです。そしてそれがフィクションになるのです。でもフィクション
 もまた、ドキュメントと同じほど現実的なもので、現実とは別の、ひとつの契機
 なのです。>(p265~266)

 んーん、気持いい。

     (ジャン=リュック・ゴダール/奥村昭夫 訳「ゴダール 映画史(全)」
     ちくま学芸文庫 2012初 帯 J)





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by byogakudo | 2015-04-19 16:51 | 読書ノート | Comments(0)


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