猫額洞の日々

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2015年 04月 24日

小林信彦「東京少年」読了

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 写真は桃園川緑道近く、大和(ダイワ)荘、廻り階段の下。

 第二次大戦末期、米軍機の空爆を予期するダイニッポン帝国軍事政権は、
労働力として幼すぎて役に立たず、足手まといになるだけの子どもたち(9歳
から12歳)を都会から農山村へと疎開させた。学童疎開には集団疎開と縁故
疎開の、二種類があった。主人公"ぼく"はオーセンティックな下町(日本橋区
両国)の老舗の坊ちゃんだが、その二種類ともに体験した。第1部が山村への
集団疎開、第2部が四人家族(両親と長男である"ぼく"と弟)揃っての雪国へ
の縁故疎開である。

 両親ともに東京なので"田舎"がない。母親から疎開の話を切り出された
"ぼく"は、子どもたちだけで親戚を頼る縁故疎開はまずない、と理解する。
いやだと言っても子どもに何が出来よう、彼は弟とともに入間郡名栗村の
山寺に集団疎開する。
 町や街での暮らししか知らない、自宅には自分の部屋と水洗式の手洗い
がある"東京少年"が、ひとりになる空間がない生活、五十畳ほどのお寺の
本堂で53人と起居する生活、慣れない汲取式便所を使わざるを得ない暮らし
に押し込められる。

 自然災害に見舞われたときと同じように、負け戦になると日常が奪われる。
半年と予定された集団疎開だが、戦争がどうなるか見通しはつかない。山寺に
押し込められた町の子どもたちは、周囲から孤立したヨソモノだけの集団生活
を送る。東京から送られてくる53人分の食糧(お米)の1/3が途中で抜かれ、
飢えに苦しむこともあって、集団内部にストレスが充満する。

 他者のない世界はひとを窒息させる。酸素不足で脳が働かなくなる。オウム
真理教内部、連合赤軍内部、ダイニッポン帝国が世界から孤立して戦争していた
時代の窒息状況が、子どもたちの中でそっくり小型化して発生する。内ゲバは
閉鎖系に付きものの症状だ。外がないから内部に敵を作って、ガス抜きしよう
とする。いまそう成りつつあると同じように貧富の差が激しく、しかも今と違って
目に見え、わかりやすい格差なので、逃げ場のない集団の中にイジメが起きる。
 
 立ち向かうべきはダイニッポン帝国軍事政権なのに、身の回りに敵を求めるのは
大人/子ども、戦中/戦後、を問わない現象だ。

 父親が連れにきて、やっと山村から脱出できた"ぼく"と弟は、母もあとで合流
するが、根雪の残る新潟県妙高市での縁故疎開生活を始める。家族全員、初めての
雪国暮らしである。
 一家はこの地で冬を越え、8・15を迎え、望郷の念久しくも、東京都は食糧事情が
悪いので転入者は制限される。(荷風が結局、東京に戻れなかったのも、こういう
ことだったのだろうか?)
 1946年12月末、一家は母親の青山の実家にやっと、帰り着く。"ぼく"は14歳に
なっていた。

 第1部より引用。
< 池袋駅から埼玉県の飯能町(はんのうまち)まで、電車でどのくらいかかった
 のか、記憶は空白である。
  ただ、電車の窓から陸稲(おかぼ)を初めて見た生徒が、水がなくても成長する
 稲だと教師に説明されて、
  「日本の科学もすごいところまできたんですねえ」
  と、本気で感心したのを覚えている。>(p28)

< 脱走計画の細部はおのおのの胸に属していたが、所持品や逃げ道については、
 友達と話し合いたかった。
  金、生米(なまごめ)、防空頭巾(ずきん)、救急袋、懐中電灯、入試問題集、
 シャープペンシル__これらは必需品だった。>(p112) 
 小学六年生の"ぼく"たちは、山寺で受験勉強をしていた。

 第2部より引用。縁故疎開先の中学でのできごとだ。
< 「あの先生は、ぼくのことを好かないらしい」
  と、ぼくが言ったとしよう。
  「おまん、<ぼくのことを>は変でねかや。<のこと>はいらない。<ぼく
 好かないらしい>と言えば通じる」
  断言されて、びっくりした。集団疎開のときでも、言葉のことで絡(から)まれた
 ことはなかったからだ。>(p193)
 都会的な婉曲表現の存在余地がない直截な土地柄ゆえに、だろう。
 
     小林信彦「東京少年」 新潮文庫 2005初 J)





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by byogakudo | 2015-04-24 20:10 | 読書ノート | Comments(0)


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