2015年 05月 02日

佐多稲子「私の東京地図」読了

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~4月30日より続く

 小学校を5年生で中退して働き始めるということは、戦前であっても
小学校は7歳で上がるから、11歳くらいから工場仕事などを始めたのだ。

 14、15歳で料理屋の女中、間が空いて17、18歳もまた料亭の女中、
経歴を偽って丸善の舶来香水売場の女店員(このとき関東大震災に遭遇)、
お金持ちとの結婚、自殺未遂、離婚してひとりでカフェーの女給をしながら
子どもを育てているとき、プロレタリア作家たちと知り合い、窪川鶴次郎と
結婚、戦時中の文学活動を咎められて敗戦後、「新日本文学会」創立メンバー
から外される。それから数年後に「私の東京地図」を書き、同会より刊行。

 描かれる東京地図は、1915年から1945年までの約30年間に渡る。
個人史であり、日本現代史に重なる。

 歩き回った町々の家並みや地形の観察に優れ、記憶に優れているのは、
複雑な環境に生まれ育ち、子どものときから人なかで働いてきたことと、
性来の気質みたようなものとが混ざり合って、後の作家、佐多稲子を準備
したのだろうか。見ること、書くことは、それらの外部に立つことだ。
 彼女の視線は、少女のころから外部の者の眼差しであり、

< 「山下」の主人は四十がらみの、役者の誰かをもっと苦味走(にがみばし)
 らせたような、こわいものなしといった凄味のある男振りで、[略]
 笑い顔にもならず突っ立っていた料理屋の主人の尊大な表情は、妙に目に
 残るものだった。この家の主人だけでなく、他の店の同年配の主人たちにも、
 どこか似よった、一味通じる傲慢な苦味走った表情があった。駿河屋の主人は、
 [中略]この人も、こわいものなしの顔をしていた。>(p43~44)

__と記述するのは45歳になろうとする作家・佐多稲子だが、観察は女中だった
少女・おいねさん(15歳)当時のものだ。この記述通りの認識ではなく、他の
表現で記憶していた事柄だろうが。

< 「あの子ったらほんとうにしょうがないねえ。出かけるまでの騒ぎったら、
 ありゃしない」
  歌うように言う。東京人の、自分の言葉の調子のよさに自ら酔ったような
 言い方がこの人の身について、一日も忘れたことのない辛い話も、聞きて
 には言葉のひびきの方が耳に残るくらいである。>(p118)

__こんな観察も、外部者だからだ。特に下町の話し言葉・口調は、歌っている
ように聴こえる。山の手は山の手で、別の歌が聴こえてくる。

 佐多稲子の細やかな観察を味わうエッセイだ。

     (佐多稲子「私の東京地図」 講談社文芸文庫 1992再 J)

 
 今日の「東京新聞」によれば、年金積立金の株式運用には、トリックがあった。
やっぱりねとしか思えないが、
<米国やカナダ、ノルウェーなどの年金も高い比率で株式運用している>と
日本の御用学者・御用有識者会議は言うけれど、
<「米国では全国民共通の老齢・遺族・障害保険は全額が市場を通さない
 国債で運用され、損失リスクがない仕組みだ」>というのが真相。

 今のバブル市況を続けていかないと、日本の年金は失われるが、株式市場が
下落してもだれひとり責任を取らず、無年金者が生産される状況が目前にある。

 憲法9条や言論の自由の大事さを訴えても、生活を直撃しない(訳ないのに!)と、
そっぽを向かれる。銭金の問題なら聞く耳があるだろう。安倍晋三・独裁政権を倒す
には、ここから始めるのはどうだろう。生活苦を苦と捉えないで、嫌韓や嫌中で憂さ
晴らしする人々を、こちら側に向かせること。敵は韓国や中国ではない、安倍晋三的
なるものだ。あの男の自殺衝動に、全国民がつき合わされるのは不幸で病的で、
忌まわしい。





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by byogakudo | 2015-05-02 22:03 | 読書ノート | Comments(0)


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