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猫額洞の日々

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2015年 05月 09日

三國一朗「肩書きのない名刺」再読・読了

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~5月8日より続く

 三國一朗は今のテレビ東京で10年間、「私の昭和史」という番組の
「きき手」をしていた。『寒い夜』と題されたエッセイでは、354回目、
壺井繁治に『多喜二の死』を聴いたことなどが綴られる。

<[略]思わず耳を掩(おお)いたくなるような話題を、[中略]私は数知れぬ
 ほど聴いてきた。[中略]私が特に辛(つら)い思いで聴くのは、昭和三[注:
 1928]年以降「治安維持法」が強化されてから敗戦までに頻発した思想
 弾圧に見られる「官憲テロ」、つまり警察官による拷問の話である。
  小林多喜二は昭和八[注:1931]年二月二十日の正午すぎ、[中略]つかまり、
 築地署で、警視庁の特高係長中川成夫、須田刑事部長、山口巡査等の取調べ
 を受けた。拷問は中川係長の指揮で、須田、山口、それに築地署の水野主任、
 小沢、芦田など特高四、五人が手伝い、前後三時間以上つづけられ、多喜二は
 夕方一度留置場の第三房に戻されたが、人事不省のまま保護室に移され、同日
 午後七時四十五分、築地署裏の前田病院で絶命した。三十歳であった。>
(p239~240)


 三國一朗は昭和四十(1965)年十一月十八日、「横浜事件」の被害者、
畑中繁雄からも、
<拷問の実態をつぶさに聴いたのである。
  それによると、取調側の中心人物であった柄沢六治という神奈川県警特高の
 警部は、拷問に際して、「小林多喜二はなんで死んだか知っているのか」「貴様
 も小林の二の舞をさせてやるぞ」と連呼したそうである。多喜二の死の当時、
 拷問の事実を全面的に否定した警視庁や築地署の発表の嘘を、この柄沢警部は
 自らの口先であばいたことになるとともに、このことはまた当時の特高部内で、
 小林虐殺が武勇伝扱いを受け、当事者は英雄視されていたことを考えさせる根拠
 にもなる。
  故高見順氏はやはり昭和八[注:1931]年の一月、大森署に検挙され、[中略]
 「一月、二月、三月を留置所で送った」一人であるが、その際高見氏を取調べた
 特高刑事は小林多喜二を調べた刑事の一人で、「お前も多喜二のようにして
 やるぞ」とおどかし、拷問を加えたという(勁草書房『高見順全集』第一巻解説)。
 このような例は他にも無数にあるであろう。多喜二殺しの下手人たちは、特高
 仲間の輝けるスターであったにちがいない。
  横浜事件の加害者たち(特高)三十余名は、昭和二十二[注:1947]年四月、
 拷問を受けた三十三名の人たちから「人権蹂躙」「傷害」で告訴された。そのうち
 次の三名だけが有罪の判決を受け、最高裁の棄却で服罪した。
  元神奈川県警察部特別高等課左翼係長警部  松下英太郎(懲役一年六ヶ月)
  元同警部                 柄沢六治(懲役一年)
  元同警部補                森川清造(懲役一年)>(p241~242)

 webを見ると、"服罪した"けれど、投獄はされなかった模様。


< 昭和五[注:1930]年以来冷害の続く東北凶作地帯の教育者たちの間に
 起った生活綴方運動も、治安維持法の取締り対象の一つとなったが、土岐
 [注:土岐兼房]さんが青森の小学校で教鞭をとっていた頃の行動に目をつけた
 地元の一警官は、土岐さんの赴任先の台湾にまで、全く独力で捜査の手をのばし、
 ついに昭和十六(1941)年十二月台湾で土岐さんを逮捕し、はるばる青森まで
 引張って来た。以来まる一年余り追求に追求を重ねたあげくの十八[注:1943]年
 二月、土岐さんは「治安維持法違反の事実なし」として釈放されたが、[略]。
  [注:TVの]控室で土岐さんにきくと、その執念深い男は当時山形県沼田の小さな
 警察署につとめていた砂田周蔵という男(妻は女教員)で、砂田はこの土岐さんの件
 での活動が上長に認められ、のちに内務省警保局思想課左翼係主任にまで累進
 したそうである。もちろん異例の栄達である。>(p242~243)

     (三國一朗「肩書きのない名刺」 中公文庫 1984初 帯 J)





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by byogakudo | 2015-05-09 15:49 | 読書ノート | Comments(0)


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