2015年 05月 24日

モーリス・ブランショ/粟津則雄 訳「来るべき書物」を読んでいる

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 写真は昨日の水神社から見た坂の反対側、つまり椿山荘の森・
関口芭蕉庵の辺り。今日は3:15pm現在、部屋から出ていない。
(4:05pmに部屋を出てしまい、5:25に戻ってきた。)

 先だって阿佐ヶ谷「コンコ堂」店内で買った文庫版のブランショを、
寝床でぽつぽつ読んでいる。気持よく眠れる。(が、当然のことながら
肉体に蓄積した疲労までは取ってくれない。)

 なぜだか分からないけれどブランショは好きだ。

<物語は、おのれ自身しか「報告」しない、そしてこの報告は、それが
 なされると同時に、おのれが語っているものを産出するのであり、それは
 この報告のなかで起っているものを現実化する場合のみ、報告として可能
 なものとなるのである。なぜなら、そのとき、報告は、物語が「記述して
 いる」現実性が、物語としてのおのれの現実性と絶えず一体化し、それを
 保証し、またそこにおのれの保証を見出しうるような、地点乃至(ないし)
 面を保有するからである。
  だがこれは、素朴な愚行ではないであろうか? 或る意味ではそうである。
 それゆえに、物語は存在しないのであり、またそれゆえに、物語に欠ける
 ことはないのである。
 [中略]
  これは、創造されるために、人の眼を開ける力をそなえたあの「光りあれ」
 という神の言葉を、みずから、まったく人間的な言いかたで発言しなければ
 ならなかった場合の、最初の人間の当惑を思い起させる。
  事態をこんなふうに言いあらわすと、実際は、ことをひどく単純化すること
 になる。そのために、人工的乃至理論的な一種の複雑化が生じてくるわけで
 ある。エイハブがモビー・ディックと出会うのは、メルヴィルの本のなかでの
 ことにすぎぬというのは、確かに本当だ。だが、この出会いだけがメルヴィル
 にあの本を書くことを許したというのも、確かに本当なのである。この出会いは、
 それが起るあらゆる面を越え、人々がそれを位置づけようとするあらゆるときを
 越えた出会い、この書物が始まるよりはるか以前に起ったと思われるほど、
 圧倒的で、法外な、独特の出会いであるが、それはまた、作品の未来のなかで、
 それに相応じた一個の大海原と化した作品が体現することとなるあの海のなかで、
 ただ一度だけ起りうるような出会いである。>(p022~023)

__どこまで引用し続けるつもりなんだ! と反省するけれど、ぶつ切りだと意味を
成さないし、カルヴィーノのパロマー氏は打ち寄せる波の数を数えることを試みるが、
ブランショの文章は波としてうねり続け、打ち寄せるので、いったん引用を始めると、
こんなことになってしまう。たんに、わたしの消化能力が低いだけだが。

     (モーリス・ブランショ/粟津則雄 訳「来るべき書物」
     ちくま学芸文庫 2013初 J)

5月31日に続く~





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by byogakudo | 2015-05-24 18:07 | 読書ノート | Comments(0)


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