猫額洞の日々

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2015年 08月 31日

高田文夫「大衆芸能ざんまい 娯楽・極楽・お道楽 しょの4」/澤田隆治「決定版 私説コメディアン史」読了

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 高田文夫は正岡容「小説圓朝」を読んだ前後に読んだ、と思う。

 伊呂波文庫に、2000年代の文庫や新書で、ヨレがなく紙面も
明るい、しかしながら蛍光ペン線引きありの笑芸関係本だけの
函があって、「ええい、持ってけ、100均!」の高田文夫と澤田
隆治ともう一冊だ。

 高田文夫の方は、2008年から2010年までのコラムだ。著者の
年齢でいうと60歳から62歳まで。彼のアイドルだった芸人たちが
次々に死亡する時期であり、図らずも点鬼簿の感が強い。
 3日経つと読んだ本は忘れるので、いま覚えているのはそれだけ。

     (高田文夫「大衆芸能ざんまい 娯楽・極楽・お道楽 しょの4」
     中公文庫 2010初 J)

 澤田隆治は、上方の芸能にも疎いので読むのに手こずった(?)。 
なんというか、読者に知識があるのを前提に書かれているような
書きっぷりに感じたのだが。

 『3 横山エンタツと花菱アチャコ』より引用。

 落語論は多いが、漫才について書かれた本が少ないのは、
<漫才のネタが、落語と違って、漫才コンビと密着したものであることが、
 そのネタを別のコンビがそのまま伝承していくという形をとらず、一代
 限りで終ってしまう>こと及び、

<漫才の歴史を生きてきた人達がついこの間まで元気に高座に上がって
 いたことも大きな原因となっている。しかし、その人達が大方亡くなって
 みると、そのネタは音にも活字にも、まして映像などはなにも残されていずに、
 一番不確かな記憶としてしか残っていない。いくら漫才がその時代の世相を
 反映させる庶民の笑いで、時代が過ぎてしまうと笑いが半減する性質をもって
 いるにしても、芸として伝承していっても良い部分もかなりあるのではないか。
 漫才は落語にくらべて、いまでもそんなに低俗なものであろうか。>(p109)

 "いまでも"というのは、1977年刊行の白水社版「底本 私説コメディアン史」
の頃の"いまでも"だ。

     (澤田隆治「決定版 私説コメディアン史」
     ちくま文庫 2003初 J)


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by byogakudo | 2015-08-31 21:21 | 読書ノート | Comments(0)


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