猫額洞の日々

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2015年 09月 03日

矢野誠一「志ん生の右手」読了

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 伊呂波文庫の笑芸関係本の3冊目、矢野誠一「志ん生の右手」は、
サブタイトルの「落語は物語を捨てられるか」をメインテーマとする、
落語その他の芸についてのエッセイ集。

 『落語は物語を捨てられるか』(「毎日新聞」1973年6月5日)より引用。

 寄席では同日に同じ噺を二度掛けたりしない、同傾向の噺も避けるのが
常識なのに、
<永六輔構成・演出による「六輔その世界」という催しで、毒蝮三太夫と
 柳家小三治とが、同じ『湯屋番』を演じたのである。
 [中略]
 柳家小三治は、プロの落語家だから、毒蝮のあとで同じ演目の落語を演る
 ことに、かなり抵抗があったらしい。一足先に、物語を奪われてしまった
 身に、頼りになるものといったらば、プロとしての技術しかない。[中略]
 たえず言葉に気をくばり、人物の形象面で徹底したカリカチュアをほどこし
 ながらしゃべったのは、すでに物語を奪われた落語家として、当然の方法
 であろう。
 [中略]
  落語が[略]物語と離れられなくなったのは、江戸末期から明治にかけてで
 あろう。文学と握手してしまった落語は、物語を得たかわりに、自由奔放で
 個性的な語り口を売り渡してしまった。[中略]
 つい最近まで「落語はだれをきくかが問題なので、だれのなにをきくかには
 さして関心がない」という聴衆の姿勢として残されていた。だが、いまや落語家
 はこっけいな物語の語り手化しつつある。『湯屋番』はだれが演っても『湯屋番』
 なのだ。>(p11~12)

 ふむふむ、"落語"という芸をヌーヴォー・ロマン的に捉え直すってことかしらと、
すぐ「酢豆腐」解釈しそうになって、どうもいけない。
 
 「國文學」1973年3月臨時増刊号に寄せた『落語の技術』は、
< なにも落語に限ったことではないが、藝における、技術のむなしさ
 みたいなことを、最近しきりと考える。>(p35)と始まる。

 たとえば完璧な技術を持つ桂文楽は、
<同じ落語に出てくる人妻でも、『心眼』『厩火事』『素人鰻』の
 ちがいを明確に演じ分けてみせる。
 [中略]
 それぞれの生活環境を、万人になっとくさせてみせるちからこそが、
 桂文楽における落語の技術であった。>(p35~36)

 映画の役者の場合、若い頃と中年以後とでは、演技へのアプローチが
異なっていたりして、時代とともに演技が質的変化を遂げているが、

< だが、落語は、明治いらい技術の革新ということと、まったく無縁の
 ところで育ってきた藝だ。いま、寄席の高座で古典落語を語っている
 落語家の前から、一本のマイクを取り去れば、タイムカプセルよろしく
 たちまち明治の世界に逆行することができる。
 [中略]
 つまり、明治このかた、落語はかたくなに「多くの人間を演じ分け、
 すぐれた描写力を身につける」ことによって、たとえ純粋話藝の道
 からいささか逸脱しても、演劇的な、あるいは文学的な世界を高座に
 再現することにつとめてきたのだ。
  そして、そのことが古典化の美名のもとに、周囲からも寛容されてきた
 のだが、実際は古典化というよりも硬直化で、気がついたときには、落語
 が本来有していたはずの大らかな語り口を落語家から奪いとり、魅力ある
 言葉に枯渇した落語の氾濫という結果を生んでいた。>(p36~37)

<長屋の生活感に代表される庶民感情の追求が、ややもすれば落語家の
 藝を、茶の間の会話的リアリティ、つまり日常性をもって最上とする
 ような方向に指向させてしまったきらいがあることは否定できない。
 [中略]
 うなぎのつかみ方が真に迫っているとか式のうまい技術は、どうもこの場合、
 日常的な生活感にあふれているということであって、藝としては、描写の
 段階なので、表現に高まるほど抽象化されていないのが現実である。>(p41)

     (矢野誠一「志ん生の右手」 河出文庫 2007初 J)





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by byogakudo | 2015-09-03 19:49 | 読書ノート | Comments(1)
Commented by saheizi-inokori at 2015-09-03 21:33
なんだか志ん生の褒め言葉(の裏返し)かと思って読んでいたら、表題が志ん生でした。
この本も読んでいたはずなのになあ。


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