猫額洞の日々

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2015年 10月 08日

伊藤計劃ブログを読みながら「虐殺器官」を読み始める

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 これも一時停止していた本ではなく、新たに読み出した一冊。一時停止は
一時(いっとき)のことなので、またいつか再開する、筈。ほとんど頭から読み
直すことになるかもしれないが。

 名前だけ知っている、伊藤計劃。円城塔との共作「屍者の帝国」を売った。
客買いしてすぐ通販に出し、すぐ売れた。あまぞんの奴隷だった頃のこと。

 webで伊藤計劃:第弐位相を遡って読んでいる。まだ、2004年5月の分だ。
 いま生きていれば、まだ、41歳になろうとしているところか。

 いまの40歳前後の人たちというと、何人かの顔を思い浮かべる。
古本屋をやらなかったら、知り合えなかったような世代の人たち。
 才能豊かでセンスがよくて、センシティヴで__その繊細さが命取りと、
ときに思わないでもない繊細な感受性が共通する世代。

 もしもわたしが彼らと同時期に生まれていたらと、想像してみる。
物心がついたとき、インフラはほぼ整えられきっている。自分ができる
のは、これかあれかを選択することでしかないと感じる。欲望から疎外
された身体をもてあます。欲望って何のことかと思う。有限性の無限に
巨大/虚大で透明な蓋に覆われた世界に生きている、と感じる。
 ナルシシズムに浸る?__そんな恥ずかしいこと、やりたくない。
"馬鹿"に見られるじゃない? それって最悪。
 浸るとすれば、十分に意識した上で、ノッたふりをしていることが完全に
周囲にひそかな理解を得ている確認ができてから。いつも自意識の網を
できるだけ遠くまで、張り続けていること。テクステュアは表から裏から、
何が隠れてるか分からないから、もちろん斜めから透かして読み取らなく
っちゃ。発語する場合もおんなじ、読みの複雑精緻さを分かってもらわなく
っちゃ。際限なく続く差異の王国で生き抜くには、明晰であり続けるしかない。
 ナルシシズムに浸ることが許される地点があるとしたら、自分が誠実に、
自分の足下の土を削り続けながらも発語してきたと認められた瞬間。それは
ナルシシズム未満、最低限の自己肯定のとき、かもしれないけれど。
 気がつけば自分の思考がコンピュータの思考法をなぞっているような本末
転倒した思考展開をしている、ことにも無限に自覚的であらねばならない...。

 ふりかえれば70年代は、のんきで大雑把な時代であった。愚かという徳は
もちろん失われていたけれど、"馬鹿"にも居場所があった。自他ともにナルシス
ティックであることに寛容であった。見ることと見られることとに等価関係が認め
られ、スターに注がれる眼差しは、スターであることを引受ける意思に還元され、
貨幣は流通した。

     (伊藤計劃「虐殺器官」 ハヤカワ文庫 2010年26刷 J)

10月10日に続く~





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by byogakudo | 2015-10-08 23:22 | 読書ノート | Comments(0)


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