2015年 10月 12日

伊藤計劃「虐殺器官」読了

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 写真は9月30日の古川に面した三田一丁目。

~10月11日より続く

 男性にとって母親はどんな母であれ、多少は神聖不可侵な存在であろうと
推測するが、マザーズ・ボーイのまま、父なき息子のまま、世界の父になろう
とする主人公・シェパードは、やっぱり不可解だ。

 あっ、主人公の姓名、クラヴィス・シェパードの姓にだけ反応していたが、
webでクラヴィスを検索したら、「デス・パレード」というアニメの登場人物に
名前があった。アニメとゲームは無知の領域(のひとつ)だが、これも伊藤計劃
の好きなもののひとつだったのかしら? 作中にはおそらく作者の好きなものが
主人公に仮託されて、固有名詞としていくつも出てくる。

 父を倒して父の権力を奪おうとする息子、というのがエディプス物語だが、
マザーズ・ボーイのまま、それを果たす主人公は、やはり日本人の男性作家の
(無意識の)造形だからであろうか。
 女の読者の視点なのかもしれないが、主人公が恋する女性に(母に代わって)
自分の罪を許すあるいは罰してもらいたいと願うのは、とても日本の近代の男
らしい、恋人や妻である女性をすぐ母に変換する習性、みたように感じられて
しまうのだが、そんなアメリカ人の主人公って存在させられるかしら?

 翻訳SFみたいな質感でありながら、最初の、目的地への降下シーンには
カミカゼや伏龍のイメージが感じられるし、主人公には日本人男性的属性が
感じられる。そのハイブリッド感がつまり、日本的、ということだろう。

 知的な作風の、いいSFだったし、作者には全く責任のないことなのだけれど、
作品の外側の物語に、どうしても引っかかる。

 "夭折した作家"という聖痕の物語が、二重箱みたいに本を覆い、作品(本)と
ダイレクトに接近することを抑制する。作者の責任ではないのに、作品と読者と
の間がフィルタリングされる。伊藤計劃が脂ぎって野心満々の作家で、いまも
活躍中だったら、作者の背景など気にせずに読めるのだが、しかし、死を直視する
とき、せざるを得なかったとき、世界は澄明なものになる。大気の一粒一粒が
クリアに見えるような、そんな世界になる。彼の文体の静かな澄明さは、彼の
肉体の状況と無関係とは言えないだろう。
 でも、それって、「ほんとうにあったお話なので、とっても感動しました」
とケータイ小説(まだあるのか不明)に反応することと、どう違うのだろう。

 できるだけ外枠の物語を意識しないで作品を読むことが、読者としての誠実
なのだが。

     (伊藤計劃「虐殺器官」 ハヤカワ文庫 2010年26刷 J)





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by byogakudo | 2015-10-12 15:27 | 読書ノート | Comments(0)


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