猫額洞の日々

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2015年 10月 20日

野口冨士男「私のなかの東京 わが文学散策」半分弱

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~10月19日より続く

 これは~2010年5月22日の続きになるが、『外濠線にそって』
にも岡田三郎のことが出てくる。

< 西久保巴町の停留所は明舟町というバス停になっているが、
 その先の、現在では日比谷線の地下鉄駅もある神谷町で忘れ
 られないのは岡田三郎である。
  御成門のほうへくだる切通坂上に西久保広町という停留所が
 あって、その左脇の石段をのぼると左へ曲った突き当りに愛山荘
 というアパートがあった。当時としては初老という感じのあった
 数え年四十八歳の岡田三郎が、銀座通りの新興喫茶東京茶房の
 ウェイトレスで、三十歳も年少の江尻のぶ子と名古屋へ駆け落ち
 してひそかに帰郷したのは昭和十二年七月__日華戦争が勃発
 した翌日あたりで、その恋愛事件は妻子ある身でかかる時局に
 何事ぞと、新聞のコラムで、モラルよりも非国民ぶりを指弾された。
 あれも一種の戦争被害だと私はおもっている。そのとき同棲したのが
 愛山荘で、そのいきさつを書いたのが『秋』『冬』『冬去りなば』
 など一連の短篇群であったが、私は頻繁にその部屋を訪問して自作の
 長篇を読んでもらった。その長篇が、私の最初の著書となったもので
 あった。岡田の死後、いちどその階段をのぼってみたら、眼の前に
 オランダ大使館の国旗がみえた。>(p30)

 岡田三郎の前に"平野水"の話が出てくるが、これは野口冨士男の
考え過ぎではないかしら?__

<私の少年時代にはソーダ水が平野(ひらの)水といわれていた。
 プレイン・ソーダのプレインが平原または平野と和訳されて、
 平野水とよばれたのだろう。>(p29)

 wikiによれば
<明治時代に宮内省が兵庫県多田村平野(現在の川西市平野
 3-23-1)の平野鉱泉を用いて炭酸水の御料工場を建てた>
<平野水は夏目漱石の『行人』、『思い出す事など』にも登場し、
 また、1897年には皇太子時代の大正天皇の御料品に採用された。>
とある。

 昭和30年代、明治生まれの祖父は"炭酸水"や"プレイン・ソーダ"
ではなく、"平野水"と呼んで、ウィスキーを割っていた。はるか後、
老人になったその孫が、お酒抜きのウィルキンソン タンサンを
愛飲している。

 ところで、わたしも「裏の畑でポチが鳴く」の"ポチ"は、petitに
由来するのじゃないかと考えるのだが。
 
     (野口冨士男「私のなかの東京 わが文学散策」
     中公文庫 1989初
     J画・小林清親「小洒落異誌」(さざれいし)より)

10月22日に続く~





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by byogakudo | 2015-10-20 15:33 | 読書ノート | Comments(0)


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