2015年 10月 23日

そして岡田三郎のことで野口冨士男「私のなかの東京 わが文学散策」読了

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~10月22日より続く

 第四章に当たるのが『浅草、吉原、玉ノ井』で、2010年5月22日
吉原行きと同じ話が出てくる。高いほうの吉原に、岡田三郎が連れて
いってくれた話だ。

< 戦前の茶屋遊びの一端は志賀直哉の『暗夜行路』から
 うかがえるが、たった一度だけ私が先輩作家に連れられて
 引手茶屋へ行ったことがあるのは昭和十三年の秋で、五十間
 町の右側にあった大坂屋という茶屋から不二楼という大籬へ
 案内された。十二時過ぎまで大坂屋の二階座敷で文字通り清遊
 という感じの芸者遊びをしたあと、女将と芸者に送られていって
 登楼したが、時間がおそかったせいか、私がそこへ通されたとき
 には二十畳ほどの座敷のやや奥まった位置に金屏風が立てて
 あって、すでに床がのべられていた。それまでの吉原体験とは
 万事に雲泥の差があったことは言うまでもないが、茶屋の勘定
 まで加えれば現在の金額で私の一人分が十五万円やそこらは
 かかっただろうとおもう。が、それでも松葉屋で観せている
 花魁ショウのような遊び方との間には格段の相違があって、
 あんな遊び方をするにはいったいどのくらいの金がかかる
 のか、私などには見当もつかない。>(p133~134)

 こう記されたのが「文學会」昭和五十二年八月号。1977年だ。
松葉屋は1998年、廃業。

 S とわたしが、意識的に東京・町歩きを始めたのが十余年前。
さすがに第三章『小石川、本郷、上野』も、第五章『芝浦、麻布、
渋谷』も、最終章『神楽坂から早稲田まで』も、ほとんどの地域が
わかる。
 しかし、せっかく野口冨士男によって細かく、どこの店の角を
曲ってと、行き方の説明がしてあっても風景の変化のほうが
速くて、ガイドブック的使用は無理だ。あくまでも1970年代後半、
まだバブル経済下の風景殲滅以前の、東京風景・ルポルタージュ
であり、そこがかつて、明治や大正、戦前や戦後すぐ、作家たちの
作品の舞台として、どのように描かれてきたかを思い出しながら歩く
ための叙情的手引である。

 最終章『神楽坂から早稲田まで』の末尾を書き抜く。__

< 旧町名にこだわる気持などまったくないとことわった上で言えば、 
 もともと江戸は武蔵野にひらかれた都市で、京都の東山、大阪の
 生駒山、神戸の六甲山のような目じるしになる山が近くにある都市
 とはちがう。
 [中略]
 町名に東西南北をかぶせることなど時代錯誤もはなはだしい。
 東京には右へまがるとか左へ折れるという表現はあっても、北へ
 まがるとか東へ折れるという表現は昔も今もない。住居表示変更は
 [中略]そんなことでいたずらに混乱させられるのは迷惑千万である。
 北砂、南砂、西荻北など馬鹿まる出しである。
  が、しかし、と私は言いたい。私はこの書物の表題を『私のなかの
 東京』としたが、万一にもこんなものを読んでくださる方がいたら、
 いかなる改悪にもめげず、現在の東京都民はもとより、かつて東京に
 居住されたことのある方、ならびに一泊か二泊の旅行者といえども、
 皇居の壕、隅田川、不忍池、浅草観音、湯島天神、佃島、菊坂、千住
 遊廓址、白山花街、銀座等々をおもいうかべて、あなたご自身のなかの
 東京を大切になさるようにお祈りして終りの言葉としたい。>
(p225~226)
 
     (野口冨士男「私のなかの東京 わが文学散策」
     中公文庫 1989初
     J画・小林清親「小洒落異誌」(さざれいし)より)






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by byogakudo | 2015-10-23 20:04 | 読書ノート | Comments(0)


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