2015年 11月 04日

橋本治『「三島由紀夫」とはなにものだったか』半分強

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~11月2日より続く

 また『第二章 同性愛を書かない作家』からの引用である。
神西清が『仮面の告白』を絶賛しながら、前半部と後半部の
タッチの違い(?)について、<「断層」がある>と書く。

< 神西清は、この「断層」に関して、<假面と告白との間に
 横たはる深淵(しんえん)そのものを、直接反映するものでは
 あるまいか>と言っている。『仮面の告白』には、この<假面と
 告白との間に横たはる深淵>的な議論がやたら多く、それは
 結局のところ、「本当はどうなんだ?」的な、「平岡公威に
 おける同性愛の真偽」にしか行きつかないようなものでもある。
 それは、昭和の初めに芥川龍之介をいじめ殺した「本当のこと
 を言え!」的な文壇の声ともつながる、近代日本文学に特殊な
 詮索でもあろう。つまりは、「三島文学における私小説性の有無」
 なのだが、『仮面の告白』は三島由紀夫の私小説であり、しかも
 「私小説にはならない私小説」として周到に設定されたもの
 なのだから、ここに深入りすることは出来ないし、深入りする
 必要もない。>(p121)

 自分がどれだけ近代日本文学痴なのか、指摘されてるみたい。
 言語活動はフィクショナルな行為であり、言葉はヒトに同化したウィルス
なのに、"本当のこと" を言うって、どういうことかと反応するのがいまは
普通になっているけれど、そうじゃなかった時代は、つい最近まであって、
それは、しつこく例に挙げるが、ケータイ小説の"実話ベース"が感動判断
の基準として存在したことからも窺われることだ。

 不思議なのは、明治のちょっと以前、幕末の江戸期には、「八犬伝」だの
何だの、フィクショナルな奇譚を楽しむ感受性が一般であったろうに、なぜ
そんなに「本当のことを言え!」"小説"が猖獗を極めてしまったのか、だ。
 ここでいきなり閃いたのが、「プロテスタンティズムの倫理と日本の近代
文学の精神」なるフレーズで、さて、これをどう説明しよう。或いはこじつけ
できるか。

 根拠を持たない怪説だが、前にも書いたけれど、近代になって現れた日本的
感受性のひとつとして、古いものはつまらなく、新しいものこそがいい、とする
態度だ。江戸は古いからもう駄目、薩長新政権は新しい支配層だから従っておこう
とする態度でもある。江戸っ子の伝統を引き継ぐ東京っ子以外の、中央ではないと
された、地方に住む"日本"人の多くが、新支配層に靡いたのではないか?

 カトリックが旧教と訳され、プロテスタンが新教と訳された時点で、勝ち組・
薩長政権に連なる(連なりたいと願う)階級は開明的であろうとしてプロテスタンを
選び__西洋の勝ち組、イギリスもドイツもプロテスタン国家であるし__、"真実"
を真正面から追究しようとする態度を善しとするようになって、ジャパナイズされた
自然主義文学が跋扈したのではないかしら。

 なかなか苦しい展開だが、かくして、レトリカルでフィクショナルでファンタス
ティックな"小説"の許容基盤は失われ、「本当のことを言う」"小説"でなければ
小説ではないとされる不自由な時代(日本の近代)が続いて来たのだと思う。

     (橋本治『「三島由紀夫」とはなにものだったか』
     新潮文庫 2004年11月1日 J)

11月7日に続く~





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by byogakudo | 2015-11-04 22:30 | 読書ノート | Comments(0)


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