2015年 12月 04日

アンリ・トロワイヤ/福永武彦 訳『蜘蛛』読了

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~12月3日より続く

 じつは福永武彦は、加田伶太郎としてしか知らない。そんな情けない
読者だが、

<ヴォオジュの広場には人気(ひとけ)もなく、枯れかかった並木、薔薇色
 をした石づくりの入口、薄暗いアーケェドなどが、田舎の廃れた遊技場
 のように見えた。>(p16 原文は正漢字・正仮名遣い)

などという箇所を読むと、あの暗いヴォージュ広場を思い出し、でもこれを
翻訳したときの福永武彦はまだ23歳、1941年のことなので、もちろん外国を
訪れたこともなく、ただフランス文学を読むことだけで、一冊の小説世界を
つくり上げたのだと、感動する。

 『蜘蛛』はストーリーも何もかも忘れきっていた。フランス心理小説と
いうジャンルがあったけれど、これは心理活劇小説とでも呼びたくなる。

 プチブルのインテリ青年が主人公で、彼は基本的に部屋のひとだ。父は
亡く、未亡人の母、姉と二人の妹に囲まれて暮らす。就職はしていない。
 英語の探偵小説を翻訳しようとしているが、むしろ"悪の哲学"エッセイを
ものしたいと望み、一家の主な収入は亡き父の残した店の売上げだが、店は
支配人任せである。姉娘は仕事に行っているが、一家の収入の一助になって
いるだろうか?

 読み進んで行くと、彼の人生の望みは、永遠に母や姉妹たちの視線の焦点で
あること、彼も彼女たちを見つめ続けること、でしかないのが分かる。
 活けるカンヴァセイション・ピースであるのが彼の欲望だ。だから、姉妹が
恋愛したり結婚して彼の眼差しの届かないところへ去ってしまうことを異常に
恐れる。それを邪魔しようと、あれこれ心理作戦を施すところが、"心理活劇
小説"と呼ぶ由縁(?)だ。

 主人公は知的には誠実だ。最初は、姉妹や友人たちのプチブル的俗っぽさが
我慢ならないと思って、彼らを矯正するために心理上の画策をしているのだと
考えていたが、後には自己欺瞞に気づく。自分の部屋に彼女たちを集めたい、
視線を集中させたいだけだと、正しく認識し直す。
 彼は自分で一家を構えることなく、"息子"のままで"父"の地位を僭称しよう
としていたのだ(テーブルの脇に積まれたままのアラン・バディウ『聖パウロ』
から、そんなフレーズが飛んできたような気がするが責任は持てない)。

 いわば、プチブルによるプチブル批判みたいな小説だが、発表された当時
(1938年)の読者層も、やっぱりプチブルだったろうし、それを思うと妙な
気分だ。

 翻訳はできたが第二次大戦中なので検閲に引っかかるので発表できず、
戦後、翻訳権を取り直して1951年にようやく出版された、という。

 インテリ青年の悲劇でもあり、端から見ればひとり相撲をとってる喜劇だ。
今だとギャグみたような主人公であるが、戦後の世相だと、シリアスに受け
とめられたのかしら。
 十代のわたしが面白がったのは、たぶん心理"活劇"サスペンスの部分だろう。

 さあ次は、トロワイヤ最晩年の小説『仮面の商人』が待っている。

     (アンリ・トロワイヤ/福永武彦 訳『蜘蛛』
     新潮文庫 1966年11刷 帯)





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by byogakudo | 2015-12-04 21:09 | 読書ノート | Comments(0)


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