2015年 12月 15日

種村季弘『江戸東京<奇想>徘徊記』読了

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~12月13日より続く

 種村季弘編集の『東京百話』で読んだような気がするけれど
誰のエッセイだか憶えていない話に、父親が幼い子どもを連れて
散歩しながら、
 「こういう何もないところを歩くのがいいんだよ」と言う
シーンがあった。

 それこそが散歩。何か目当ての買い物があったり、用事があって
歩くのは散歩ではない。歩いてるときに何か目について欲しくなり
買うことはあるが。
 だから、人にぶつからないように注意しながら繁華の地を歩くのは
散歩にあらず、じゃあ何だといえば、それは強いられた消費活動とか
なんとか。あらかじめ消費者としてふるまうことが望まれている街に
わざわざ出向くのは、飛んで火にいるとか、ね。

 種村季弘『江戸東京<奇想>徘徊記』は、この意味で徹底して散歩で
ある。むかしは繁昌したこともあるけれど、今では地元の人々しか
いないような町を訪れる。

 『29 愛宕山「路地奥」再訪』では、昭和36(1961)年から住んでいた
場所を訪れる。
 
 種村季弘の住まいは、
<木造アパートの二階六畳二畳。それでも一間きりの独身アパート
 からやっと昇格した二間付きだった。>(p252)

< さて、困った。今回のお目当ては、愛宕山付近の徘徊である。
 そうなるとこれは昭和三十六年からおよそ十数年間毎日歩いて
 いた道をなぞって歩くことになる。それなら目をつむっていても
 歩いて行ける。それだけに町の現在が見えてこない。記憶のなかの
 路地から路地へと迷路伝いにさまよううちに、過去の町から出られ
 なくなってしまう。記憶のなかの町から出たくなくなる。だから
 現在目の前に見えている町が見えない、いや、見たくない。>(p253)

 高層ビルだらけになった、かつての路地の町を東京タワーから見下ろして
みようとする。

< ここの展望台からは、ほぼ真下にあるわが家が室内まで丸見えだった。
 いまはどうかな。望遠鏡を覗く。レンズの円形のフレームのやや東側奥に
 愛宕神社の黒ずんだ森、手前に逆三角形の青松寺の墓地が白っぽく映る。
 と、墓地との境のところに見覚えのある二階屋が目にとまった。ややッ。
 あれはかつてのわが家ではないか。まだ消えてなかったのだ。まさか夢
 ではあるまいな。>(p255)

 地上げでほとんど無人になった路地奥の界隈に、ひとり残って猫と暮らす
のは、かつての顔見知りである。かつての少女が還暦を過ぎている。
 このエンディングは、ほとんど夢か現か、幻想小説に近い書きっぷりだ。

     (種村季弘『江戸東京<奇想>徘徊記』
     朝日文庫 2006初 J)






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by byogakudo | 2015-12-15 13:24 | 読書ノート | Comments(0)


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