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猫額洞の日々

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2015年 12月 17日

イヴリン・ウォー/吉田健一 訳『ブライヅヘッドふたたび』再読開始+選択的夫婦別姓判決

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 卓上に単行本が4冊、積まれている。上から順に、イヴリン・ウォー/
吉田健一 訳『ブライヅヘッドふたたび』、野村胡堂『銭形平次捕物全集5』、
吉田暁子『父吉田健一』、そしてアラン・バディウ/長原豊・松本潤一郎 訳
『聖パウロ』。いちばん下を除いて、吉田家の方へ、みたような重なりだ。
 たまたまだけれど。

 ローレンス・ブロックの泥棒バーニイ・シリーズでも(?)好きな本と
して言及されていたと思うが、ときどき読み返したくなる『ブライヅヘッド
ふたたび』なのに、なんてこと、文庫版のほうが高い!
 よって、初めてオリジナルの単行本を手にする。宇野亜喜良のジャケット画
はすてきだけれど、小説とはちょっとずれてるような気もする。

 まだ回想シーンに入ったばかりだが、ホモセクシュアル小説でもある(勿論
それだけで括ってはならない)ことに、やっと気がついた。

 主人公(語り手)は、望んで始めた軍隊生活(第二次大戦中)に、すっかり
飽きがきていることに気づく。この場面が、妻との家庭生活にうんざりした夫の
比喩で語られる。妙に肉体的で生活感がある書き方だ。なんだかへんてこである。

 そして大学時代の回想に入るが、初めてセバスチアン(あっ、これも聖セバス
チアン?)とドライヴするとき、運転席(セバスチアン・フライト卿)と助手席
(語り手のチャールス・ライダー)の間に置かれたセバスチアンのテディベアは、
トリスタンとイズーの間に置かれる剣に等しくはないだろうか? 
 このまま牽強付会読みを続けそうなので、あんまり信用せずに読み飛ばして
いただければ、と願う。

     (イヴリン・ウォー/吉田健一 訳『ブライヅヘッドふたたび』
     筑摩書房 1963初 J)



 選択的夫婦別姓についての最高裁判決は、お笑いぐさとしか評しようのない
代物だ。いちばん笑ったのが、多数意見の中に記された、

<しかし、現在の制度が旧姓を通称として使用することまで許さないわけでは
 なく、通称使用が広まることで[注:男性側の姓に変えた女性の]不利益は
 緩和される。>という箇所である。

 法律でわざわざ規定しなくても世の中で通用してるから、いいじゃん、と
言っている。サボらせてくれよ、めんどくさいからさあ、と言っている。

 法律は、社会の公的な支持体・言語ではない、と言いたいのか。いいのか、
法律家がそんな台詞を吐いて。それを言った途端、法律家として給料なり
報酬なりを得てきた根拠がなくなるのだが。

 裁判官の多数意見中に記されたということは、(実質)男の側の姓に統一
しないと、女の愛をつなぎ止められないとでも思っている、自分に自信の
ない、魅力のない男どもが書いた作文であることも示す。(他にどう解釈
すればいい?)

 連帯責任は無責任。ところで、映画監督は、映画会社で制作する映画の
権利は持たないが、できあがった作品の評価には全責任を負う立場にある。
それにならえば、裁判長・寺田逸郎は作文(判決文)に全責任を負うことに
なるが、彼の補足意見は、

<国民的議論、民主主義的なプロセスで合理的な仕組みを決めることこそ、
 ふさわしい解決だ。>

と、国民すなわち国会に下駄を預けて、自分は逃げ出す。まさしく近ごろの
男らしい、処世術である。





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by byogakudo | 2015-12-17 15:10 | 読書ノート | Comments(0)


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