2015年 12月 24日

牧野武夫『雲か山か 出版うらばなし』再読再開

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~12月18日より続く

 やっと戻ってきた。ページを遡って、抜き書きする。

 中央公論社はそもそも雑誌社だった。滝田樗陰の「中央公論」、嶋中
雄作の「婦人公論」で名を売っていたが、円本ブームに乗りそびれた、
とある。
 小説家は頼まれて「中央公論」に原稿を寄せ、その後、作品は他社から
単行本で出版される、という順序だったらしいが、どうして自社で単行本
を出すことを思いつかなかったのだろう? 滝田樗陰の死後、左前になった
中央公論社は、「婦人公論」を率いていた嶋中雄作が社長になって漸く、
牧野武夫を呼んで単行本の出版部門を作るのだ。

 「中央公論」や「婦人公論」は人気があった。良い作品が掲載される
高級な雑誌と認められ、売行きが良かったから、それ以外の流通システム
を考えないですんでいた、ということかしら? 

 ソフト(やな言葉)の二次利用、三次利用、他業種とのタイアップなど、
いろいろな手を組み合わせて作品、すなわち商品を流通させようとする現在
から眺めるので、不思議に思えるのだろうか。

 嶋中雄作が中央公論社経営の近代化を図った一例として、新聞広告の
扱い店を、長年のつき合いのあった博報堂から電通に変えたことが挙げ
られている。

<改造社の[注:広告料金の]単価が中央公論社より安いという確証を握った
 嶋中氏は、いきなり扱い店の博報堂へねじ込んだ。>(p39)
 嶋中社長も博報堂の担当重役も、遠慮なくぶつかる方だ。正面衝突して
電通に変わった。

 ついでに電通の歴史も抜き書きする。

< 日本電報通信社(通称電通)は明治三十五年[注:1902年]の創立である。
 電報通信社というからには、通信業務を主としたものと誰でも早合点する
 だろうが、[中略]実質的には広告代理業が眼目であった。
 [中略]新しいビジネスとして、広告もまた記事なりという近代的な色あげ
 によって浄化して行こうというところに、[注:社長]光永氏の事業家的
 炯眼が光っていたのだと思う。>

 電通は<広告と通信の両建てで、地方新聞と結んだ>。
<通信の方も機構を整備し、国内だけではなく海外にまで通信網を拡大して、
 戦争前にはすでに、電通と聯合は、日本の二大通信社として世界的にも認め
 られる地盤を持っていた。>

< 電通はニュースを流すと同時に、広告代理業にも馬力をかけて、東京大阪等の
 大都会の有名商品の広告を送稿した。ちょうど資本主義の興隆期で日本の産業も
 目ざましく躍進する際であったから、この方面の宣伝広告も殖える一方であった。
 新聞というものは、記事と広告とから成り立っているのだから、ニュースと広告の
 原稿をまとめて提供してくれる電通の存在は、各地方新聞にとっては絶対的のもの
 となった。
 [中略]
 ひところ電通横暴の声も起きたこともあったが、広告を貰わねば記事を送って貰え
 ない、記事を買わねば広告を送稿して貰えない、というようなデリケートな関係に
 なって、いわば死活の鍵を電通に握られた形で、各地方新聞はグウの音も出なかった
 時期もあったらしいのである。しかしその間、そういうビジネスを通じて、電通が
 各地方新聞を育成して来た功績も、なかなか尠なからぬものがあるのである。
 [略]
  創始者光永星郎氏は、[中略]帝大出たての若いインテリジェンスを採用した
 ところに非凡の着眼があった。当時はまだあまりがらのよくないと思われがちな
 広告取り商売に、大学卒業生を採用するということは、採用する方もする方だが、
 採用されて飛び込む方も飛び込む方だった。>(p88~90)

 中央公論社と電通の取引が始まったのが昭和4年、1929年秋だ。おおよそ
1920年代から、日本の資本主義は資本主義らしくふるまうようになった、
という理解でいいかしら?

     (牧野武夫『雲か山か 出版うらばなし』
     中公文庫 1976初 J) 

12月25日に続く~





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by byogakudo | 2015-12-24 19:51 | 読書ノート | Comments(0)


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