2016年 01月 06日

東秀紀『荷風とル・コルビュジエのパリ』1/2

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 永井荷風(1879~1959年)とル・コルビュジエ(1887~1965年)では、
荷風が8歳上である。ふたりは相知らぬ間柄ではあるが、同時期(1908年
の初春)、パリで交錯する。荷風は厳父の期待に背き、しかし父の温情で、
パリの2ヶ月を得る。ル・コルビュジエも恩師の教えに背き、パリを選ぶ。

 山田風太郎なら、すれ違うふたりで、何か小説が書けそうだが、こちらは
二人についての章が交互に綴られるダブルの評伝だ。あるいは最終的に東西
比較文化論になるのだろうか。
 ふたりがそれぞれに見たパリ、見ようとしたパリ、そして見ようとしな
かったパリが記される。

 荷風が初めて見たパリは、1907年、リヨンに行く前の2日間に見たパリだ。
オスマンとナポレオン三世によって大改造されたパリ、どちらかといえば
表通りのパリを大急ぎで見物する。
 思いがけず2ヶ月の猶予がもらえた二度目(翌1908年)のパリでは、
(機械文明の大都市はアメリカで十分見てきた)荷風は、大改造の対象
から取り残されたパリを見つめようとする。

< アメリカ諸都市の文明的迫力の前に、凱旋門に代表される「表通り」の
 パリは追随しようとしていた。そして荷風にとって、この現実を耐え抜き、
 自らの芸術を組み立て直すことが、いわば作家としての成熟を意味した。
  作家として荷風が行ったことは、実際のパリをそのまま認めて現実に埋没
 することではなく、いわば「悪の華」の世界に於いて培養し、フランス到着
 以前に憧れていたパリの姿に、あくまで仮構し続けることであった。その
 仮構により、彼は自らの文学を形成しようとしたのである。
  そのパリとは、もはやオスマンが改造した「表通り」ではなく、むしろ
 都市計画から残された「裏町」であり、歓楽街といった場所であった。>
(p113)

 パリにいて現在時のパリを見ようとしない。憧れとしてのパリ、イマージュの
パリ。パリは(再)創造/想像され、後世のわたし(たち)も思いをともにする。
中野駅北口や東中野の一画に、その記憶が今でも残るように。

 ル・コルビュジエの場合は、オスマンのパリをニューヨークよりももっと
ニューヨーク(?)にしようという意思であろうか。
 1925年の現代装飾・産業美術国際博覧会(アール・デコ博)の「レスプリ・
ヌーヴォー館」の展示、「三〇〇万人の現代都市」(「現代都市」)と「ヴォワ
ザン計画」の模型と図面は、今後の機械文明、自動車文明を見据えた都市
計画だ。
 三〇〇万人の都市では、高速道路が都市部に集結し、人々は超高層ビルで
仕事をしながら、生活空間では自然にも恵まれる。

< 超高層ビルの足元を自動車で通ると、様々な公園が配置され、住宅
 地区の中低層の建物が木々の間から見える。コルビュジエの都市が高層
 建築ばかりで構成されていることを攻撃する意見は多いが、「現代都市」
 の都心部は地面の九五パーセントが公園として計画されていることを、
 彼のために弁護しておくべきだろう。実際一九三〇年代にアメリカを訪れて、
 ニューヨーク市マンハッタンの摩天楼群が、まわりに公園の余地もなく建設
 されていることを、厳しく批判しているコルビュジエである。>(p92)

 但し、ル・コルビュジエの、言うなればオスマン上書き計画では、
<幾世代にもわたる、人々の記憶を秘めたパリの名所が、「最も不潔な
 街区、最も窮屈な街路」であるとして、完膚なきまでに再開発されつくされ>
ることになる(p94)。実現されなくて、本当によかった。

 少しページを前に戻って。
<建築が科学と融合することを示すために、コルビュジエは「住宅は住む
 ための機械として、考えられなければならない」という有名なテーゼに
 到達する。
  フラットな屋根をもつ靴箱のような直方体、一階を自動車の駐車のために
 開放したピロティ>(p74~75)。

 今の戸建て建売住宅の標準装備であり様式でもある、3階建てで1階部分に
玄関と駐車スペース・スタイルは、ピロティの、やくざで怠惰な成れの果て
だった。無惨である。

     (東秀紀『荷風とル・コルビュジエのパリ』
     新潮選書 1998年2刷 J)

1月7日に続く~





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by byogakudo | 2016-01-06 16:43 | 読書ノート | Comments(0)


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