2016年 01月 30日

古本屋と新刊書店に行きたい

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 寒くてSが体調を崩し、部屋に籠る日が続く。わたしは元気なので、
ひとりでほっつき歩いてもいいのだが、寒過ぎる。風邪引くじゃないか。

 本屋に行きたい。古本屋の棚を眺めて、何か見つけたい。新刊書店で
1月24日付け東京新聞で見た、伊藤隆『大政翼賛会への道』(講談社学術
文庫)が買いたい__図書館って手があるのだろうけど、行き慣れてない。

 同日の見開き書評ページ・左側の下段には、やっと、ベルナール・
ラマルシュ=ヴァデル/鈴木創士・松本潤一郎 訳『すべては壊れる』
(現代思潮新社)が短く紹介されていた。文字数に限りがある中での
要約解説なので、むずむずしてくる。もっとちゃんと称賛さるべき、
翻訳行為だ!

 買ったのにまだ読まずに溜まってる本があるのは、よく知っている。
死ぬまでには全部読みきるからさあ、本屋に行きたいの。行ってしばらく
滞在して何か手にして帰れば、当面、落ち着くのだ。これは十分に、中毒
と呼ばれる状態であろうが、お酒は飲めないし、煙草は止めた、博打は
したことがない...仕事もしてないが、さして他の悪癖にも染まらず生きて
いるのだ(悪癖に染まる体力をなくしたのだ)、本くらい買ってもいい、
でしょう? 
 誰に訊いてるのだか分からなくなってきたが、今日付けの『梟通信〜
ホンの戯言』ブログで悪かったね 荒川洋治「日記をつける」、を拝見。

 わたしも、荒川洋治「日記をつける」を読んだ上で感想を書くべき
なのだが、『梟通信〜ホンの戯言』ブログ中に引用された、

< ブログで自動記述のように、どんどん書いていけば、その言葉の量で、
 「自分がある」ような錯覚が生まれる。でも、それは「自分のない状態」
 なのだ。冷静になれば、他人もないが、自分もない状態であることに気づく
 ことになる。>

__<ブログで自動記述のように、どんどん書いて>行けるかなあ? ブログの
基本は、他人の目に触れることを前提とした書記、でしょう? そして、ひとが
言葉を用いて考える段階で、他者が存在している。それを記述する以前に、"わたし"
という第一の他者が存在を始める。

 荒川洋治によれば、ブログに対して日記は、非公開が前提であり、

< ひとりになり、自分に向き合い、自分があることを感じとりながら、静かに
 日記の文字を書く。最少の文字に思いをのせる。感じたことも、思ったことも、
 自分のなかにとどめる。だいじなことは、時間をかけて考える。こうした内側の
 ひとときをもつことをたいせつに思う人は、ブログによりかかることはないように
 思う。>

__なんだか(失礼ながら)ナイーヴに聞こえる。内省の時間を持とう、ってこと
だろうが。

 建前を本音として生きていたい、と思ってきた。だって、そうでしょう? みんなが
本音むき出しに生きていたら、それは非人間的な社会である。
 お酒に酔っぱらって互いに我を忘れた言動をする(見せつけ合う)ことによって、
腹を割った本気のつき合いが成立する? まさか。それは日本の近代というマザコン
文化の中でしかあり得ない、特殊な状況だ。
 検閲はまず"わたし"から始まるが、それなしにも人間は人間として存在しない。





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by byogakudo | 2016-01-30 21:33 | 雑録 | Comments(3)
Commented by saheizi-inokori at 2016-01-30 21:56
荒川がいうようなブログもあるしプロが印刷媒体に発表する文章にも自動記述みたいなのが多いのではないかと思います。
彼は本書にパーテイに出ていたこと、出版社に電話で在庫の有無を訊いたことなどが、勝手にブログに書かれたことを「ブログがブログに関係のない人にまで影響を及ぼすようになった」「これからは人と話すときにブログをやっているかどうかを確かめないと何もしゃべれない、怖い時代になった」というのです。
それは紙媒体にも当てはまるのでしょうが、ブログは極めて迅速かつ広範囲に伝達されてしまうのを問題としているようです。
「書き手としての条件をみたしていない人、たれながしのブログを書いても平気な人のもとには、言論の舵を渡さない。そのほうが社会は大きな傷を負わないように思う」とも。
「書き手としての条件」というのを決めるのは自分なのでしょうが、それがあればブログで言論の舵を握ってもいいということなのだろうか、わかりにくいのです。
Commented by byogakudo at 2016-01-30 23:18
うーん、カラオケ=ブログ(ツィッター/フェイスブック)論、でしょうか? 
素人(しろと)が全員、表現者(?!)を目指すので観客がいなくなった、という。

書籍形態なら、店頭に並ぶ前に原則として、作家・編集者・印刷者の目がありますが、
ブログは書き手ただひとり、だから問題が起きる、と言いたいのでしょうか?

むかしだって、赤新聞というのかイエロー・ジャーナリズムというのか、ひどい
"言論"はあったけれど、インターネットの拡散速度は桁違いなので、質と量の違う
被害も起こり得ますが、書かれて困ったなら削除を頼む、とかでは取り返しのつかない
被害、それとも、たんにプライヴァシーを保ちたい、ということでしょうか。
ヘイト・スピーチ以外のすべての言説は、どんなにあほらしい垂れ流し言説であろうと
保証さるべきかと思います。それを認めなければ、荒川洋治の言説のよって立つ場も
否定されるのではないでしょうか?
Commented by saheizi-inokori at 2016-01-31 10:34
>建前を本音として生きていたい
今日になってわかってきたような気がします。
甘利が政治家は悪いやつでも来るもの拒まず、といったのは本音のまま生きているってことですね。
そういう本音が鍛えなおされて建前が本音になる政治、見果てぬ夢か。


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