2016年 02月 26日

ドナルド・キーン/大庭みな子 訳『古典の愉しみ』半分

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 日本文学にヨワい日本人には、外国人のために書かれた日本文学史の
ほうが解りやすいだろうという読みは大筋では当たっているようだが、
『第二章 日本の詩』で、比較文学的に西洋の詩の技法の話が出てきて、
ここらは全くの無知識なので困る。

< 和歌は特定のパターンに並べられた三十一[注:五、七、五、七、七]
 のシラブルから成ると述べた。音節の韻というものは過去の西欧の詩の
 中には存在しない。現代詩では音節韻が強勢(stress accent)による韻律
 より普通になっているかもしれないが、単なる音節の数というものが充分
 なリズムを与えるということは、少なくとも英語においては考えられない。
 英語に組み込まれている強勢は、弱強格(iambs)や強弱弱格(dactyls)の
 ような定まったパターンを詩人が尊重するしないに拘らず、英語には現れて
 くるものである。現代英語での詩作ではこれらの強勢を利用し、シンタッ
 クス(主語、述語、修飾語などの位置関係)で音節をさらに強調する。初期
 の英語の詩ではその韻律効果を強勢のパターンか韻に頼っていた。ギリシャ
 語やラテン語では母音の長短を用いることによって同じようなパターンを
 つくり出していた。
  日本語には強勢がない。この点ではそれぞれの単語の最後の音節の強勢が
 均一になっているフランス語に似ていて、ギリシャ時代から好まれていた
 パターンに近い詩を作るのは不可能である。それでもフランスの詩人たちは
 二十世紀まで常に韻を用いてきたが、これは日本の詩人にとっては不可能な
 ことである。韻をふむことが難しいというのではなく、逆に韻を揃えるのが
 容易すぎるのである。中国から輸入されたある種の言葉以外は、日本の言葉
 は五つの母音のどれか一つで終わっている。意図するとしないとに拘らず、
 韻の数学的な確率は二十パーセントである。
 [略]
 韻というものは困難が伴うときに初めて関心が持たれるものであって、必然的に
 起こるものであれば、それが散文と詩の違いを示すものとはなり得ない。第三の
 西欧の韻律の方法__音節の長短、強弱によるもの__は日本の古典では不可能
 であった。というのは日本語ではすべての音節のウエイトが同じだからである。
 現代の日本語では長母音、短母音のものがあるから不可能ではないかもしれないが、
 そういう試みをした詩人はいないようだ。
  日本語では音節に頼るしかなく、八世紀から二十世紀に至るまで、あらゆる形の
 詩において、この原則は変わっていない。>(p48~50)

 英米文学の講義に顔を出していれば、なんの話かピンと来たかもしれないのに、
こうやって書き写してみても、隔靴掻痒のままだ。

     (ドナルド・キーン/大庭みな子 訳『古典の愉しみ』 宝島社文庫 2000初 J)

2月27日に続く~





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by byogakudo | 2016-02-26 22:41 | 読書ノート | Comments(2)
Commented by きみ子 at 2016-03-01 13:00 x
マリヤさん、お久しぶりです。

ケータイが、去年故障してご連絡先がわからなくなってしまいました。

1月19日にダンナ光生が、肺炎のため、他界しました。

マリヤさんにも、会いたがってました。

最後まで、病と闘ってました。
Commented by byogakudo at 2016-03-03 10:04
真理矢さん宛の連絡が届きましたので、公開しますね。


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