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猫額洞の日々

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2016年 03月 13日

(2)谷口吉郎『雪あかり日記/せせらぎ日記』読了

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~3月11日より続く

 ヒトラーのナチ・ドイツでは建築や芸術への新しい基準、ヒトラー
の好みに沿った基準が施行された。ムッソリーニのイタリアでも同様に、
ムッソリーニの趣味に従った基準が強制されたが、二つのファシズム
国家の美意識は、真反対を向いている。

<ドイツでは国粋的な伝統主義が官許の芸術運動となっている。そのため 
 表現派、抽象派、バウハウスのような前衛的造形運動は、国策に反抗する
 ものとして厳しく弾圧されている。
 [略]
  ところが、イタリアではモダニズムが行動権を握っている。驚くような
 新しい前衛的なスタイルの建築や彫刻、絵画が官庁建築や公共施設に目ざま
 しい活動を実行している。ドイツもイタリアも共に全体主義国家であり、
 独裁政権であり、同盟国であるのに、美術政策は全く相容れない主義主張を
 堅持している。>(p359~360 『せせらぎ日記』『ファシスト・イタリア』)

 1938(昭和13)年10月20日、谷口吉郎は師・伊東忠太の勧めに従い、ナチ・
ドイツに向かう。
<ベルリンの日本大使館が、[注:上記の]新しい都市計画のために改築される
 ことになったので>監修しに行くのである。
 船は日本郵船の靖国丸、同盟国への公演に向かう宝塚少女歌劇団も同じ船
であった。
 ベルリン着、11月10日。到着当夜が"水晶の夜"だ。

 戦火が近づくのが実感される日常だが、谷口吉郎は仕事の合間を縫ってドイツ
やフランスの建築を見て回る。今まで建築雑誌の写真で知るのみだった建築を、
実際に街の風景の中で、見る。画集で知る絵画を、自分の目で見る。

 1939(昭和14)年8月24日、ウィーンにいた谷口吉郎は、戦争の切迫を感じて
ベルリンに戻ることにした。交通機関の混雑混乱が始まっている。
 27日真夜中にベルリン着。避難船・靖国丸はすでにハンブルクから出港。
 谷口吉郎は陸路で船を追いかけ、30日夜、ベルゲン港に停泊する靖国丸に
乗船。
 9月1日、ドイツ軍、ポーランド侵攻。
 3日、フランス、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、インドが
ドイツに宣戦布告。
 4日正午、靖国丸、ベルゲン港を出る。
<ただちに北上し、遥かイギリスの北方を迂回して、アイスランドの南から北大西洋
 に出てニューヨークに向うのだが、このコースは「日本郵船」の定期航路に入って
 おらず、船員も初めての航海だ[略]
 臨戦態勢の海へ、この船が出ていくのである。>
(p514 『せせらぎ日記』『ベルゲン港まで』)

 『雪あかり日記』はベルリン滞在時の、死後刊行の続編『せせらぎ日記』には
他の訪問地で見聞きし考えたことが収められる。きなくさいことが好きな安倍
晋三・独裁政権下の日本に、なんともタイムリーな完全版の復刊だ。

 『雪あかり日記』の『雪どけの日』は、ベルリンのドイッチェス・テアター
での「桜の園」観劇記である。

< この第二幕目が終ったあと、私は幕間に、二階のロビーに行ってみた。
 楕円形のホールには、夜会服やナチスの党員服を着こんだ人々が集って
 いる。
  しかし、その人々が、皆、列を作って歩行運動をしているのには驚いた。
 歩調はおだやかだったが、大勢の人々は、四列縦隊のような隊伍を組んで
 足並みを揃えながら歩いている。
 [略]
 劇場のホールで、こんな整然とした隊伍をととのえ、時計の針の逆方向に
 行進する規則正しい回転運動[略]
  人々はこんな行進をやりながら、お正月の「あいさつ」を交したり、
 チェーホーフを論じたり、世間話しに花を咲かせたりしているのである。>
(p212~213)

 『せせらぎ日記』の『モネと睡蓮』からも引用したい。

< オランジュリー美術館の室内には、夕刻が近づき、天窓からさし込む
 光線は次第に暗くなってきた。入場者は私ひとりで、他に誰もいない。
 私はモネの絵に別れを惜しむ気持で、展示室の内部を、もう一度一巡
 した。
  すると、私の足音のほかに、誰かもう一人の足音が耳に聞こえる。
 それが私に近づき遠のいていく。しかし、姿はなく靴音だけである。
  それで気がついた。この展示室は楕円形となっているので、室内に
 焦点が二つある。そのため私の靴音は壁に反射して、他の位置に焦点を
 結ぶ。その反射音が私の移動によって弱くなったり、強くなったりして、
 他人の足音のように聞こえるのである。>(p298)

 三度、単行本化された『雪あかり日記』(1947(昭和22)年・東京出版、
1967(昭和42)年・雪華社、1974(昭和49)年・中央公論美術出版)だが、
あとがきが、三本とも収録されている。あとがき(三)によれば、

<はじめ「文芸」の誌上に拙稿が掲載されたのは昭和十九年の暮
 [略]
 私の文章はドイツで迫害を受けているユダヤ人のことに触れたり、
 ヒトラーに対しても不吉な予感を述べていた。そのため雑誌の
 編集者はそれを気にされた。
 [略]
  次に拙文が一冊の本として出版されたのは、終戦後の昭和二十二年
 だった。その時も紙が一層乏しく、出版物はアメリカの進駐軍によって
 統轄され、きびしい検閲を受けていた。しかし、こんどは戦時中とは逆
 で、戦争のために命を失った人々の霊を哀悼することも、はばかる時勢
 となった。[略]私の文章は無名戦士の廟のことを述べていた。
  その後、[略]風土や伝統をうとんずる作風が高まっていた。そんな
 時勢の時にこの本の第二版が出版された。しかし、文中で私は風土と
 伝統に関心を寄せている。だから、この本はいつも変転する時流から
 はずれていたように思う。>(p266~267)

     (谷口吉郎『雪あかり日記/せせらぎ日記』
     中公文庫 2015初 帯 J)





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by byogakudo | 2016-03-13 20:46 | 読書ノート | Comments(0)


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