2016年 03月 25日

吉村昭『わたしの普段着』読了

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~3月24日より続く

 フィクションに対する考え方が前提から違うのだと分かったのが、『献呈
したウイスキー』だ。

 吉村昭が尾崎放哉を主人公に『海も暮れきる』という"小説"を書いたら、
NHKの橘高(きったか)というディレクターが放送劇にし、さらにTV映画に
した。

<テレビで放哉を演じたのは、新劇俳優の橋爪功さん、他の出演者は
 私の小説の舞台になった小豆島の人たちであった。つまり玄人(くろうと)
 の役者さんは一人で、他はすべて素人(しろうと)という異色作であった。
 [略]
 このテレビ映画は出色で、大いに満足した。それは橘高さんの演出力と
 橋爪さんの絶妙な演技、それに素人であるが故(ゆえ)の自然な島の人々
 の動きによるものであった。>(p188)

 <素人であるが故(ゆえ)の自然な島の人々の動き>という捉え方が、わたし
には不思議。素人にカメラを意識させなかった橘高ディレクターの腕、で
あろう。

< 圧巻は、放哉の酒癖の悪さを橋爪さんが演じるシーンであった。
 [略]
  放映後、打上げという意味で橘高さんに誘われ橋爪さんと酒食を共に
 することになった。
 [略]
 家を出る時から身がまえるような気持になっていた。酒乱である放哉を
 演じた橋爪さんの陰惨な姿が眼の前にちらつき、それは演技とは思えぬ
 地のものに感じられた。橋爪さんにそのような性癖があって、自然な形で
 放哉を演じたように思えてならなかった。>(p188~189)

__ちょっと待って。カメラや照明や音声を拾うマイクに取り巻かれていながら、
<演技とは思えぬ地のもの>で<自然な形で放哉を演じ>るって、どんなことだと
吉村昭は言いたいのか? 
 これに続く行は、吉村昭のヒューマーだが。

< 橋爪さんは、平常はおだやかな人柄で、常にかすかに笑みをたたえている。
 しかし、このような表情をした人こそ酒が入って、ある段階に至ると、急激に
 酒癖の悪い男に一変することを、過去の経験で知っていた。橋爪さんは、危い、
 と思った。>(p189)

 某新劇俳優の酔態のひどさを思い出しながら放哉を演じたのだと聞いて、やっと
吉村昭は納得する。

< 私の緊張感はゆるんだ。その俳優の酒癖の悪さは私もきいたことがあり、
 橋爪さんの言葉を信用した。あの演技は地のものではなく、その俳優の模写
 であったのか、と思った。>(p191)

__吉村昭の<地>と<模写>の関係はどうなってるのだろう? 
 カメラを(他者の視線を)意識すると、人は<地>ではいられない。そこに素人と
玄人の違いはない。しかし、プロは<地>に見せられるけれど、素人はカメラの前で
自然で(!)はいられない。

 この一篇は、吉村昭のリアリズム論にも思えて、その意味で面白い。吉村昭が、
資料の精査と取捨選択に"私"を覗かせる"歴史小説"家を自認するのは、分かる
ような気がしたが、"フィクション"であることの前提条件から、まるで考え方が
違い過ぎて...。

     (吉村昭『わたしの普段着』 新潮文庫 2008初 J)





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by byogakudo | 2016-03-25 21:46 | 読書ノート | Comments(0)


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