猫額洞の日々

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2016年 05月 08日

広津桃子『父 広津和郎』読了

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 写真は5月3日UNTIDYで。縁近くに上っていく黒ずんだ青がうつくしく、
その下に Staatlich (たぶん)、さらに下の Berlin の B がかすれているところ
が好きだ。

~5月7日より続く

 広津和郎の晩年は松川事件の被告たちを救うことに費やされたが、全員無罪を
確認(1963年)し、賠償裁判の審理の日にも傍聴に行き、その二ヶ月後、1968年
9月に病没した。

 広津和郎の文章からの引用__

<......、事件の起った昭和二十四年という年は、この国は[略]アメリカの占領下に
 あったことである。六月に吉田内閣は占領軍の指示により人員整理のために定員法
 なるものを作ったが、その頃から全国の諸処方々で線路に石や樹木が載せてあった
 とか、信号機が破壊されていたとかいったような列車妨害の報道が、頻々として
 新聞に掲載され、それが左翼的な思想犯罪であるように宣伝されて、国民の心を
 不安にかり立てた。
  そういう宣伝の行きわたったところに、下山、三鷹、松川の三大事件が次ぎ
 次ぎと相ついで起ったわけである。これらは定員法による国鉄の大量馘首につれて
 起った事件であったが、その馘首に反対するための左翼的労組がこれらの事件を
 ひき起したのだと宣伝されると、前以て鉄道妨害を左翼の思想の持主がしきりに
 起すという「予断」を植えつけられていた国民は、一も二もなくそれを真実と思い
 込んだ。かくいう私などもそう思い込んだ一人であった。
  松川の被告人諸君は、こうしてマスコミが彼らに対して最も不利な空気を醸(かも)
 し出している時期に、逮捕され、第一審[注:被告20人全員有罪、死刑5人]、第二審
 [注:被告17人有罪、死刑4人]と裁判されたのである。
 [略]

  その彼ら[注:被告たち、弁護士たち、被告の家族たち]の訴えが、最初は国民
 の間に反響を呼び起さなかったが、いつか一人、二人と耳を傾ける者が出て来て、
 次第に獄中にいる被告人諸君が、この事件の犯人ではないのではないかという
 疑惑の念が人々の心に拡まり始めた。かく言う私などもその一人で、私は第一審
 の裁判中には、彼らに対して全然無関心であった。それが第二審の進行中に、
 彼らの訴えに耳を傾けるようになり、その結果、法廷の全記録を調べて見よう
 というほどの関心を持つようになって来たのである。>(p99~100)

 広津和郎は、1954年4月から4年半にわたって「中央公論」に第二審判決批判
の文章を連載、<他人の自白を証拠として、被告達を罪にすることができるという
法律的解釈に対する疑問>を述べる。

< これは単に松川事件の被告人諸君ばかりではなく国民全体の問題である。
 検察側のとったこういう法律的解釈をゆるせば、人は如何に真実を守っていても、
 何時他人の自白によって罪にされないとは限らない。私は日本の法律がそんな
 不安なものではないと思うので、この点についての検察側の法律的解釈は正しい
 解釈ではないと信ずる。>(p100~101)

 これに対して素人の<「騒音」とか「法廷侮辱罪適用云々」の論>が起きる。
日本っていつも変わらなく日本。異を唱えること自体を許さない、同調強要
共同体だ(他人の足を引っ張ったって自分の脚が長くなる訳ではないのに)。
 非難を耳にしても広津和郎は意に介さない。

< 「こっちは我が国裁判の公正のために協力しているつもりさ」
  と言い、
  「もし、侮辱罪などというなら、本当に適用できるかどうか、よほど検討しな
 ければならない。ということはつまり、事件そのものを徹底的にしらべることに
 なるから、それも悪くない」>(p101)

     (広津桃子『父 広津和郎』 中公文庫 1979初 J)





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by byogakudo | 2016-05-08 14:20 | 読書ノート | Comments(0)


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