猫額洞の日々

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2016年 06月 24日

加藤周一『雑種文化_日本の小さな希望_』再読+α

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 YouTubeで見られる、憲法改正誓いの儀式
ツイッターで知った。
(>https://twitter.com/roboandmiri
>https://twitter.com/asunokaori/status/745121853845364737)

 こちらもツイッターで知った、「住民票を今いるところに移してないから投票行くのムリ」
→いまいる場所で投票する方法

(>https://twitter.com/roboandmiri
>https://twitter.com/mmmmmoustache/status/745952268982222848
>https://twitter.com/nasukob/status/745196653389320192) 

 トランプに拍手喝采する貧乏白人、EUから離れれば仕事が得られると
信じる(信じたがる?)イギリスの貧乏白人...第二次、というより第一次
世界大戦前夜を繰り返しているような退行的既視感。近代を清算して
再構築するにも、優先順位や手順があるだろうに。
 安倍晋三や日本会議・連中のいう"美しい日本"への回帰だが、彼らが
日本の近代について考えたことがあるかしら?

<戦争中の「国民精神総動員」、つまり戦争を正当化するために天皇を
 祭りあげると同時に日本文化を祭りあげるという仕事をひきうけたのは、
 主に京都の哲学者の一派と日本浪漫派の一派であった。そこで西洋の
 哲学によって訓練された方法を使って哲学者たちは、天皇制を「近代化」
 したのである。
 [略]
 いわゆる「超国家主義」そのものが舶来の道具で組みたてられる他は
 なかった。純粋日本主義者にとって不都合極まるこういう事情は、しかし
 決してあたらしいものではなく、維新前後の尊王攘夷論の発展の経過の
 うちにもすでに示されていたといえそうである。
 [略]
 伝統的な日本文化の遺産だけにたよっていては、明治の富国強兵的
 国家主義をつくりだすことさえもできなかった[略]。
 なぜならばその場合の国家の概念そのものが「先進国」で歴史的に
 つくりあげられたものであったからだ。そのとき和魂洋才ということが
 原則として通用したのは当事者の主観においてにすぎない。
 [略]
 そのときすでに輸入を必要としていたのは西洋の技術制度だけでなく、
 それによってある程度まで西洋化した社会を統一するために必要な国家
 の概念そのものであった。その後半世紀、「資本主義最後の段階としての
 帝国主義」戦争の時代に、素朴な富国強兵的国家主義を普遍化し合理化
 して「大東亜共栄圏の理論」をこしらえる必要が生じたとき、そのための
 方法がもはや国学ではどうにもならなかったのは当然であろう。果たして
 ドイツ哲学の影響をうけた京都の哲学者が「動員」され、弁証法も重宝に
 使い、ゲオポリティークも便利に応用して、用を弁じるということになった
 のである。大東亜共栄圏の理論その他は本来日本的なものであるどころか、
 いたってハイカラなものだ。伝統的な概念的枠組みだけから日本とその
 伝統的文化の世界史的使命などという考え方が出てくるわけがない。>
(p37~39『日本文化の雑種性2』)

     (加藤周一『雑種文化_日本の小さな希望_』
     講談社文庫 1975年4刷 J)





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by byogakudo | 2016-06-24 22:18 | 読書ノート | Comments(0)


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