猫額洞の日々

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2016年 08月 03日

A・アルトー/鈴木創士 訳『ヘリオガバルス あるいは戴冠せるアナーキスト』が届く

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 写真は、先週、7月28日(木)の暑い午後、Sがひとりで行った築地
市場脇で。
 相変わらず踵が痛い。遠出すると、いきおい地下鉄の階段の昇降
回数も増えるので、近場しか同行しないけれど、近場であっても
なんだかだと歩数は増える。治すには、歩くことを控えるしかない
かしら。

 今日、A・アルトー/鈴木創士 訳『ヘリオガバルス あるいは戴冠せる
アナーキスト』が郵便受けに入っていた。ありがとうございます。

 装丁は、ジュネ『花のノートルダム』と同じく、ミルキィ・イソベ。
 全体に暗い赤地、タイトルを入れるための黒抜き枠、そして背表紙
に続いて行く右端が、誤ってネガが発光したように、粗く白く色抜け
しているのが、すてきだ。

     (A・アルトー/鈴木創士 訳『ヘリオガバルス あるいは戴冠
     せるアナーキスト』 河出文庫 2016初 帯 J)
 


 演劇、演じること、ふりをすること、等々と言葉を転がしていたら、
ふいと、ある世代のいう"自己実現"とは、明治維新以来の"立身出世"
思想のポストモダーンな言い換えに過ぎないのじゃないかと思いついた。
(在りように於いて、パチンコ屋の"新装開店"と、どう違うんだろう?)

 "立身出世"には、まだ他者がいた。努力した結果、郷土の先輩の引き立て
なぞという"運"の存在もあって、ある地位に到達する、というような気配が
つきまとう。なにせ農村共同体が強固に在った時代だし。

 "自己実現"に他者はいない。あらかじめ想定された型に向かって、ひとりで
とぼとぼ歩いて行った結果、"自己"が"実現"する、イメージ。生命体の最終
目標は自己完結、お墓に入るように自己を完成する...。

 新自由主義経済下に強制される"自己責任"の一種でもあるのが、ある世代
のいう"自己実現"ではないかしら。強制されてるのに、あたかも自由意志で
それを選んだかのように振舞わなくてはならない。"立身出世"なら落ちこぼれる
ことも選択肢にあるが、自由意志と見なされる"自己実現"で、脱落に拒否の意志
を示すことができるだろうか。タチが悪い言葉であり、事態だ。





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by byogakudo | 2016-08-03 21:42 | 読書ノート | Comments(0)


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