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猫額洞の日々

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2017年 02月 11日

(2)伊藤整『近代日本の発想の諸形式 他四篇』読了

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 写真は2月6日(月)、本郷4丁目か5丁目で。嘘のように
静かで人気(ひとけ)がなく、鳥の声と風の音しかなかった。
 出かけてはみたけれど、あんまり寒くて歩けなかった散歩。
桜木神社というのも感じがよかった。
 神社も仏閣も教会もモスクも、建築物あるいは空間として
眺める対象でしかない。"ご利益"だの"パワースポット"だの、
「ニッポン、すばらしい!」だの、大嫌いだ。くたばっちまえ。


2016年8月22日より!続く

 読み続けられなくて、手元に置いておけば読むかと思えば
そうもならず、デニム地のブックカヴァを手にいれたので、
それに内蔵して地下鉄に乗ったら、無事、読了。

<生きる方法が文学の方法となるところの私小説のあり方と、
 描く方法が文学となるところの、いわゆる芸術至上主義的
 方法とが、同じ日本の近代の中に存在することを考えた。
 また、この二つの方法は、実は、別々に孤立して存在して
 いるのでなく、私小説系と言われる作家と、芸術至上主義派
 と目される作家との内部に、種々の割合で同時に存在している
 ものであることに気づいた。
 [略]
 芸術的に無方法であるはずの私小説における方法ということを
 [注:私は考えた]。
 [略]
 人間の存在の意味とか生命のあり方を、文芸という芸術の秩序の中に
 ある手段を通して追究すること、という形で考えて見た。そうすると、
 生の実態とか目的のために芸術や芸術家生活を利用する、という場合
 も包括し得るように思われた。
 [略]
  私小説作家の根本にある考え方の一つとして、自分がいかに生くべきか、
 という意識がある。[略]いかに生くべきかということが、更に二つに分裂
 しているので、一つは良心的に生きようとする事であり、もう一つは良心
 的に作品を書こうとすることである。
 [略]
 彼が良心的であろうとすることは、他人と自分との調和や、他人を傷つけ
 ないことや、他人に納得の行く生き方や表現をすることには、あまり関係
 がないのが常である。
 [略]
 私小説の中に起るこの良心の働きは、周囲や他人への論理的な、または
 改革的な働きかけでなく、自己のみの良心の安定を願う衝動の形であって、
 そして実はそれがまた日本の庶民の多くの良心の働き方の型と共通性の
 あるものである。>(p106~109『近代日本の作家の創作方法』)

 こんな風に、一歩ずつ、じわじわと論を進める。

<[注:花袋『蒲団』は]何か目立った作品を発表して世を驚かそうという
 焦燥から生れたところの、自分の体裁を犠牲としての露出の強行である。
 それは世間を意識したところの効果のための露出となった点で画期的な
 ものであり、[略]功利的な意識で行われた自己犠牲である。しかし事実上
 は家族犠牲である[略]ところの自己暴露が予期以上の効果を発揮して、
 これでいい、と思った時から、彼の方法にならった小説家たちの意識には、
 生活の良心がそのまま芸の良心になり得るという感じとともに、演技的
 意識の芽が発生したのであった。しかし、この種の作品の方法は、「生皮
 を剥(は)ぐ」という自己犠牲の意識で理解されて、彼らの良心を落ちつか
 せたものであった。
 [略]
 平野謙(ひらのけん)は、私小説作家の生活は、芸術家至上主義である、
 と述べた。[略]即ち作家として、かつ作中人物として生きるために、自己
 の生活を特殊なものとするのみでなく、暴露し、家族の犠牲を顧みず、
 世間のしきたりを破り、自己と家族を責めさいなむのである。
 [略]明治末から大正期にかけての上記の鏡花、綺堂、竜之介らの作品を、
 自然主義系統の私小説と、質的につながりのあるものと見なし得ると
 考える。鏡花や竜之介の小説においては、フィクションであったところの
 ものが、花袋から葛西善蔵に及ぶ系統においては、私生活の暴露となって
 いる。しかし、その芸術家至上意識においては、この二種のものは、同質
 である。ただ前者の系列では、フィクションが必要であり、後の系列では
 フィクションが不要であると感じられただけだ、と。>
(p114~115『近代日本の作家の創作方法』)

 いまとは"フィクション"の定義が異なる(ほんとに異なっているのか? 
"実話信仰"が根強いように思われるが)けれど、身も蓋もなく近代を
分析している。
 だが、社会全体としては"近代"は何も問いかけられず、従ってそっと
寝かせられて、そのまま腐っていく/いるのだ。


     (伊藤整『近代日本の発想の諸形式 他四篇』
     岩波文庫 1999年31刷 J)



呪 吐爛腐/呪 心臓亜屁/呪 共謀罪=ネオ治安維持法/





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by byogakudo | 2017-02-11 15:20 | 読書ノート | Comments(0)


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