猫額洞の日々

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2017年 07月 11日

(2)種村季弘「雨の日はソファで散歩』読了

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~7月10日より続く

 『高下駄を履いた弱』(『III 雨の日はソファで散歩篇』)は、
2002年5月に筑摩書房『牧野信一全集 第3巻』月報に寄せられた。

 牧野信一は普段は無口でおとなしいが、お酒を飲むと一変したらしい。

<アルコールのせいで天狗の高下駄を履いた気分になり、あげくは
 天狗の大団扇に煽(あお)られて空に舞い上がったりする。>(p185)

 宇野浩二がある日、牧野信一が酔って、歌舞伎役者の口調で
「ソクラテスの弁明」を暗唱しているのを見て驚いた、という
話から__

<しらふではろくに口もきけない赤面恐怖症患者が高下駄を履いて
 人並み以上に見せようとして、歌舞伎役者の声色の仮面をかぶって
 みせた。でも仮面がうまく素顔をカバーしきれない。小粋な声色を
 演じたつもりが応援団並みの蛮声にしかならない。仮面をかぶる
 ほどに、仮面と素顔の落差がかえって露(あら)わになってしまうのだ。>
(p186)

__この辺り、とくに、
<でも仮面がうまく>から、最期の行<かえって露(あら)わになってしまう
のだ。>への展開、誰かの文章を思い出させる。池内紀。

 池内紀が種村季弘の文体に影響を受けた、ということか。わたしは逃避的
な姿勢を好むけれど、池内紀の逃げっぷりとは、どうも合わない。なんだか、
 「逃避、おしゃれでしょう」と言われているようで具合が悪い。あたしの
逃避はもっと切実なんだよと、言い返したくなる。

 『IV 聞き書き篇』の『江戸と怪談 敗残者が回帰する表層の世界』
では岡本綺堂を中心に、種村季弘の日本近代文学史観が語られる。

 明治の言文一致運動について、
<要するに近代国家の文体論でしょう。国家論の文学版なんです。>
(p204)と、口を切る。

<江戸の文化の構造というのは、いちばん上に漢文脈の人がいて、
 その次は俳人層で俳句をひねる人。いちばん下が相撲層といって、
 ボディーランゲージで生きている人。相撲とか女郎とか、ボディー
 ランゲージで生きている人間が、そのへんで生身で採集した話を
 もって帰ってくるわけです。それを下手な言葉で喋ると、俳人層と
 いうのが必ず村にひとりふたりいて、それが話をまとめてやる。
 まとめたものを、そこの領主の祐筆か何かのところに持って行くと
 ちゃんと漢文にしてくれて、それを治領の江戸幕府に「こういう
 事件がございました」と上げていく。
 [略]
  要するに明治の言文一致というのは、その一番上の連中の漢文脈と
 いうか、漢語的な文体をどうするかということで始めた問題でしょう。>
(p207)

 岡本綺堂は、敗残の江戸っ子という
<メンタリティの中のひとりでしょう。明治の文学者は、そういう人たちが
 かなりいますけれども、それが大正になると荷風ですね。昭和になると、
 そういう人はほとんどいなくなってしまう。でも少しはいて、大衆小説家
 というのがそれになるわけです。>(p207)

<鷗外とか地方から来た知識人は、地方の人を差別するわけでは
 ないんだけれども、地方から来ると東京が初めてで基盤がないから、
 __鷗外なんかも史伝物に手を染めるまでは__その中で生活して
 旧江戸の人たちと一緒になって江戸文化を楽しむとか生活を楽しむと
 いうよりは、むしろ新たにつくられた明治以後のステータスの階段を
 のぼるということで必死になってしまうわけでしょう。それをやると、
 文士であろうが何であろうが、
 [略]
 あとの余裕がないんですよ。自然主義文学の人たちというのは、
 その余裕のないところで、しかも漢籍とか英語の素養もないような人が、
 ゆっくり文学を楽しむとかいうものとはまったく違う、実用本意と
 言っては悪いけれども、自分の身の回りを観察して表現することで、
 要するにステータスを最短距離で上り詰めなければいけないという、
 そういう文学手段を追いかけた。果たして小説家の場合に、具体的に
 そういうコースがあったかどうかということは別問題として。
  自然主義というのは、疑似国家論とか、国家論の裏返し、反体制も
 体制の裏返しでしょうが、まあ、自然主義の変種の私小説も、一種の
 ハンディーなミニ・ユートピアを自分で苦しんで書いているわけですね。
  文学史というものが、そういうものを中心にまとめられていったので、
 そうでないものは大衆文学として切り捨てちゃったんだね。>
(p214-215)
 
 種村季弘と澁澤龍彦とは、ほぼ同時期のスター作家だと、思ってきた。
澁澤龍彦は一大ブームを引き起こしたのに、種村季弘にはなかったし、
いまだにブームは起きてない。忘れ去られてもいないが。
 澁澤の山の手性は、高度経済成長下での日本の"普通"(正しくは、自分
も行けるかもしれない、より上層の"普通"幻想)として、ミドルクラスの
子女の琴線に触れ得たが、町っ子・種村は東京ローカリズムを代表する。
 東京という特殊が広がりを持ち得なかった、ということだろうか。
地域性が強く、憧れを抱いたとしても、"地続き"になり得ないのだ。


     (種村季弘「雨の日はソファで散歩』 ちくま文庫 2010初 J)


(1)種村季弘「雨の日はソファで散歩』
(2)種村季弘「雨の日はソファで散歩』





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by byogakudo | 2017-07-11 20:05 | 読書ノート | Comments(0)


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