猫額洞の日々

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2007年 08月 01日

「アントナン・アルトーの帰還」読了

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 (写真はクリックすると拡大します。)

 元版は12年前に河出書房新社から刊行された「アントナン・アルトー
の帰還」。今回の現代思潮新社版は、元版に少し手を入れただけだそうだが、
元版は読んでいない。

 第二次大戦後、1946年5月26日、アルトーはようやくロデーズの精神病院
から解放され、パリに戻ってくる。アルトーを待ち受ける人々の中に、今は
彫刻家として滞在している日本人亡命者(「私」)があったという設定で、
資料を引用しながら、晩年のアルトー像が描かれていく。

 この「私」という話者の設定が、小説としての「アルトー伝」に必要で
あったかどうか。必ずしも成功しているとは言いがたい設定であるが、伝記
文学がともすれば陥りやすい、手放しの「聖者伝」を避けるための装置で
あろう。
 また、「私」を投入することによって、アルトーにおける身体と言語の
関連が、ひとりアルトーのみの問題でなく、わたしたち自身にも共通する
思考のテーマであることが強調される、という必然性は感じられる。

 これは、いま河出書房新社から刊行中の「アルトー後期集成3」を補完
する役割をもつ出版だ。「後期集成3」は直接のテクスト集であるから、やや
背景が解りにくい。それらが発表された当時、どう受止められたかを描く
「アントナン・アルトーの帰還」を併せて読むことによって、より感覚的な
理解が得られることであろう。

 アルトーの思考や感覚に添ったイメージの展開する箇所がいくつか
見られるが__それを記すのは「私」なのかアルトー自身なのか、判然と
しない。「私」でもあり「アルトー」でもあろう。__読みながら気が
つくと自分自身の思考展開に入り込んでいた。たとえば、

<私とは、ネルヴァルの言う他者なるもの(Je suis l'autre)、他者そのもの
 であるのか、それともA・Rが言うように、一個の、しかも三人称的な
 契機による、それ自体において未知である他者(Je est un autre)なのか?
 どちらも同じこと? いや、そんなことはない。でも、どう言えばいいの
 だろう、思考が私をとおして現実化されるとき、ある観点からすれば、
 一個の他者とは言語の存在(エートル)そのものではあるまいか。「私」の
 内と外。「私」のすべてのモメントは言葉によっている? たしかに
 それをちゃんと理解するのは非常にむつかしい。それでもA・Rが言った
 ように、私が考える、ではなく、人が私をして考えるまさにそのとき、
 言葉は到来するのだろう。宙吊りのままの「私」は、言葉と一緒に
 向う側からやって来るだろう。>(p107-108 ボールドは原文では圏点。)

 1995年1月17日、阪神・淡路大震災。同年9月20日、河出書房新社より
「アントナン・アルトーの帰還」刊行さる。

     (鈴木創士 現代思潮新社 07初帯)
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by byogakudo | 2007-08-01 14:35 | 読書ノート | Comments(0)


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