2008年 05月 17日

稲垣達郎「角鹿(つぬが)の蟹」読了

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 薄々そうではないかと思っていたが、わたしは日本の
「近代文学」から遠い。もしも「近代文学」が「早稲田文学」
を基準とするものであるならば。
 急いでつけ加えるが、「早稲田文学」も「三田文学」も未だ
手にしたことがない。そんな古本屋があってよいものか、と
言われそうだが、そうなんです。すいません。

 こないだ近代文学館に迷い込んで、受付の女性から
 「何かお調べになられます?」と問われ慌てて
 「いえ、近代文学を知りませんので」と反射的に答えたが、
それでよかった。
 「荷風と森茉莉、三島・吉田健一、澁澤龍彦を少々、あとは
風太郎をどっさり」という日本語文学読書歴で、近代文学館で
何をする?

 何となく店の棚から持ち帰って読んでみた「角鹿の蟹」
(稲垣達郎 講談社文芸文庫 96初帯)。しみじみ、自分の読書
傾向が、いわゆる文学好きとずれているのだろうなと思わされた。
 名前しか知らない文学者を研究した、名前さえ知らない学者への
追悼文を読んでいると、坪内逍遥を始祖とする日本「近代文学」
系統樹のどこに、わたしの好きな小説家たちは配置されることか。

 文体はかっちり端正で、読みやすかった。きれいな日本語だ。
内容が遠いのは仕方ない。

 でも、「誤植でないことば__あるいは、「格」のありなし
__」の章はぴんと来る。「むつかしい」か「むずかしい」かで、
時々で揺れ動いたり、文学書中での漢字使用例
< 寺田寅彦には、「法則」は絶対に「方則」である。武者小路
 実篤には、「成長」は絶対に「生長」でなければならないので
 ある。横光利一にとっては、『幸福の撒布』では感覚にそぐわ
 なかったのである。>(p258)の辺りは、近代文学痴にも
共感できる箇所だった。

 今週の新着欄です。よろしく。
  新着欄
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by byogakudo | 2008-05-17 14:12 | 読書ノート | Comments(0)


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