猫額洞の日々

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2008年 08月 13日

齋藤磯雄「ピモダン館」再読中

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 むかし読んだときには読み過ごしてしまったフランス近代歌曲に
ついてのエッセイ(「ドビュッシーの歌曲」「耳の回想」「フランスの
詩と歌曲」「美酒・フランス歌曲」)、今回は引っかかる。

 気がつくと、美咲歌芽句(みさか・めぐ)がやろうとしている詩の
朗読方法について考えながら、読んでいた。クラシックとロック系の
違いはあるし、なにより強弱アクセントと高低アクセントの言語の
違いという大きな差異はあるのだが。

 同じくヨーロッパ近代の歌曲であるドイツ・リートと、フランスの
「メロディー」と呼ばれる近代歌曲(芸術的歌曲)との比較を読みながら、
いわゆるロックバンドのヴォーカルに陥らない、芽句の詩の朗読方法が
あるはずだ、なぞと考えていた。

< ドイツのリートとフランスのメロディー(芸術的歌曲)とを比較する
 場合、後者が前者よりも遥かに詩句のリズムを尊重することは著しい
 特徴である。ドイツのリートが多く固定した回帰型の拍子をもち、
 しかもしばしば[注: 原文は漢字]同じ旋律の上に異る詩句を載せてゐる
 のに反して、フランスのメロディーは、頻繁な拍子の変化によつて
 紋切型の均整から脱出して、自由に、柔軟に、詩句に内在するリズムに
 順応する。>(小澤書店 84初函 p123)

 (PCで使える文字が少ないので、<敗戦後の所詮(いはゆる)「雲助文法
馬丁文字」>(小澤書店 84初函 p324)に改変して引用するしかないが、
どうか齋藤磯雄の霊よ、わたしを恨まないで下さい。)

 「言葉の抑揚は旋律の苗床だ。」というディドロの観察があるそうだが、
詩と音楽とが姉妹関係にあった過去から、17世紀の古典主義時代による
隔絶、それを経て19世紀ロマン派以降、ふたたび詩と音楽との内面的な
結合が図られる。

< 「メロディー」以前にあつては、作曲家は、詩に美しい旋律をつけ、
 或は美しい旋律に詩をあてはめ、これに伴奏を添へて、以て足れりと
 した。これはいはば「詩」と「音楽」との外面的な結合にすぎない。
 これに反して「メロディー」作曲家たちは、単に詩の意味や印象や気分
 のみならず、何よりも先づ、選ばれた詩篇を構成する詩法上の詳細を
 研究した。すなはち、詩句の動勢を、その緩急と上昇下降を、その
 リズムと諧調を精査し、一語一字一音のニュアンスに至るまで吟味して、
 これに最も緊密適切な旋律と和声をあたへ、詩と旋律と伴奏との、
 抜き差しならぬ内面的な結合、有機的な合体を図(はか)つたのである。>
(小澤書店 84初函 p146)

 芽句のやりたいことの基本的立場は、これに近いことではないかしら。
日本語と欧印語の根本的な違いがあるから、直接には援用できないが、
朗読に対する姿勢として、共通性があるのではないか。
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by byogakudo | 2008-08-13 13:20 | 読書ノート | Comments(0)


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