2008年 10月 08日

難波和彦「戦後モダニズムの極北 池辺陽試論」読了

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 おととい頃(?)読み終えたので、なにを書くつもりだったか、
すでにうろ覚え段階に達してしまった。思い出せるだけ、書こう。

 池辺陽は、建築というデザイン行為にまつわるすべての事象を
能う限りシステム化して考察しようとする。建築はアート行為では
なくデザイン行為であるという立場だ。

 建築家個人の感性や美意識に出発するデザインではなく、デザイン
チーム全員が共有できる情報を、図式化・システム化しようとする。
 情報には、建設行為、建材等のみならず、そこに住う人間がいかに
ふるまうか、変化して行くかも含まれる。作られた住宅は、いわば
仮説の検証としての存在である。

 だから住み良いかといえば、石津謙介は、池辺陽の弟子筋の
宮脇檀に住宅の改造を依頼した。室内のコンクリート剥き出しの
部分は檜の厚板で覆い、間に断熱材を詰めて、冬の寒さ・夏の
暑さを緩衝する、という改造である。(この箇所は宮脇檀「それでも
建てたい家」/新潮文庫 95初 p169~170より。新建材は火事のとき
怖い話も、この本で読んだ。)

 建築デザインに当たっての原則性・観念性重視の立場からは、
こういう問題も当然、発生する。
 しかし、難波和彦が考察しているのは、この点ではない。
池辺陽の思考展開について、である。戦前の青春期に日本浪漫派に
影響され、美学的なアプローチから建築に携わろうとしていた
池辺陽が戦後、モダーニストとして再出発し、生きてきた軌跡を
検討することが主眼である。

< 建築空間が下部構造だとすれば、自己の内面は上部構造である。
 どちらも相対的には自律しているが、外部の諸条件との絶え間ない
 やりとりによって鍛えられなければ、内面のリアリティは自我の
 球体に閉じ込められ、最終的には独我論に陥る。相互作用によって
 両者をダイナミックに変化させることがデザインの本質であり、
 生活の本質であると池辺は主張していた。>(p201)

 あらゆる思考をシステム化(客観化)させ、合理主義の果てに
現れる非合理に到達しようとした人、なのか__やっぱり上手く
まとまらなかった。読んだ直後ならまとめられた、ということ
でもない。

   (彰国社 99初)
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by byogakudo | 2008-10-08 12:49 | 読書ノート | Comments(0)


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