2008年 10月 27日

「絵空ごと」半分ほど

e0030187_13251186.jpg










click to enlarge.


 ヒューマーとは、ものごとに対する距離感に生じるおかしみ、
自分自身をもからかう態度・自己客観視から生じる笑い、のこと
と理解している。

 滑稽さにおいては小説中、白眉といえるウィルコックス氏の
「日本の英国紳士」養成用寄宿舎の話であるが、ここでは
ヒューマーはむしろ成り上がりものに対する攻撃的なブラック
ヒューマーとして展開される。

 「唐様で書く三代目」にもなれば、もう成り上がりとは
呼ばれないだろうが、二代目あたりでは成金のしっぽが取れず、
散々にからかわれている。
 ここで、ふと、吉田健一は維新の元勲以来、何代目にあたる
のかと、不穏当・不適切なことを考えてしまったのは、こちらの
育ちがよろしくないからであろう。

 小説の眼目はもちろん、そんなことではなく、擬制の終焉を
吉田健一式に語れば、かくもエレガント、ノンシャランになる。

 ところで話はそれるが、吉田健一・甥の現首相、ホテルのバーに
夜な夜な通うことを批判され逆上しているようだが、批判する方も
される方も、論点がヘンではないか。

 私的な時間をどう過ごそうと、私人公人を問わず、どうでも
よいことである。
 だが政治家という公人の場合、オフでも人目はつきまとう。
世界恐慌のただ中で夜毎のバー通いが報じられて、人々の目にどう
映るか、それを感じない・考えないのは、政治家の身振り(パフォー
マンス)として、ヘマである。

 報じる側も、「庶民感情」という括りに安住して、批判しては
いないだろうか。敗戦後の日本は、かつての集団思考を反省し、
個人が個人として生きることを選ぶ、個人主義者の日本を目指して
いたのではないかしら。
[PR]

by byogakudo | 2008-10-27 13:25 | 読書ノート | Comments(0)


<< 篠原知子さんのねこ張子      吉田健一「絵空ごと」再読中 >>